本文
井口 喜源治(いぐち きげんじ)
「研成義塾」を創設 多くの逸材を輩出
1898年、仲間の支援を受けて出身地の穂高で私塾学校「研成義塾」を創設。30年余にわたり約700人を世に送り出しました。
小学校教師だった井口は、キリスト教信仰などを理由に、勤務先の学校で排斥運動が起こりました。その際、同郷の相馬愛蔵は「天下に君をいれる学校は恐らくあるまい。君をいれることのできる学校―それはたゞ一つ、君自身の学校だ。我々はどこまでも援助する」と井口を助けます。研成義塾はこうして誕生しました。
井口は30人前後の生徒たちを前に、全教科をほぼ1人で教えました。教え子によると、「人格者たれ」「汝よい人となれ」が口癖だったといい、人格形成や英語重視など特色ある教育を実践。研成義塾で学んだ人の中には、評論家の清沢冽や実業家の東條たかしなど国内外で活躍した逸材もいます。井口の死後、清沢は「無名の大教育家」、相馬は「穂高の聖者」と称えました。
1969年、穂高に開館した井口喜源治記念館では、喜源治の書簡や研成義塾の教科書などを見ることができます。
ゆかりの場所
矢原高地の集会所を仮教室にあてて、とりあえず開塾ときまった時は、年内にも新築のつもりだった。それが思うにまかせなくて、三年が過ぎてしまった。
(小説『安曇野』第1部 その十六より引用)
井口は初め、矢原の集会場を借りて研成義塾を創設。1901年に新校舎が完成して移転しました。現在の矢原地区公民館には「研成義塾創設の地跡」、移転後の場所には「研成義塾之跡」の碑が残り、いずれも市の史跡となっています。
【写真左:研成義塾創設の地跡、写真右:研成義塾之跡の碑】