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清澤 洌(きよさわ きよし)

記事ID:0110116 更新日:2024年2月9日更新 印刷ページ表示

対米戦争に警鐘 研成義塾卒の評論家

 井口喜源治が1898年に創設した私塾「研成義塾」で学んだ卒業生の中には、国内外で活躍した人も少なくありません。ジャーナリスト・評論家の清澤洌は、塾の卒業生を代表する一人です。

 旧北穂高村(現・安曇野市穂高)に生まれた洌は、13歳で研成義塾に入塾し、3年後の卒業とともに渡米。現地で政治経済学を学び、シアトルとサンフランシスコの邦字新聞社で記者になりました。10年余の渡米生活を終え、新聞記者を経てフリーの外交評論家としても活躍しました。

 洌の主張は、平和外交に立脚した経済交易の充実であり、そのための国際理解と協調の重要性でした。日本の対米戦争に警鐘を鳴らし、アメリカとの協調路線を訴え続けました。

 太平洋戦争開戦から翌年の1942年、『戦争日記』と題した日記を書き始めます。戦後に『暗黒日記』として刊行され、戦時下の軍国日本を痛烈に批判した著作として評価されています。そんな洌自身は戦後を見ることなく、1945年5月、病気のため55歳で亡くなります。​

清澤洌

ゆかりの場所

先生の教えを守って、どんなことがあろうと、良心だけは失くしてはならないと思っています、そう言って、清沢は枕もとへ坐りこむと、むかしから喜源治の好物だった生菓子の包みを広げるのであった。
(小説『安曇野』第4部 その五より引用)

井口喜源治が創設した研成義塾で学んだ洌は、喜源治を先生と呼んで慕いました。引用部分は病床の喜源治を見舞った場面です。井口喜源治記念館では、洌が友人に宛てて書いた書簡を見ることができます。

清澤洌の書簡

【写真:井口喜源治記念館にある清澤洌の写真】​

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