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企画展「『明科の宝』刊行記念展示」

記事ID:0067544 更新日:2021年1月10日更新 印刷ページ表示

企画展「『明科の宝』刊行記念展示」

期 間 : 令和3年1月10日日曜日から3月31日水曜日まで

場 所 : 安曇野市文書館閲覧コーナー

明科町刊行物の展示の様子←明科町刊行物の展示の様子

 今から1200年ほど前、官道である東山道は現在の松本市街地を抜け、小県郡を通過して多賀城へ向かっていました。また、松本市内で分かれた越後国へ向かう北路が四賀地区を抜けて麻績を通り、善光寺平へ抜けていました。また、四賀地区から分かれた道が会田川に沿って明科に抜けます。安曇野への文物の出入りをさせる、まさに安曇野への入り口でした。犀川とそれに沿った道も、上流、そして下流から多くの文物をもたらしました。さらに明治時代、国策により篠ノ井線が開通、明科はやはり安曇野の物流の中心でした。

 素晴らしい自然景観がある、明科の山間地。そして土地に根付いた養蚕、麻、煙草、炭焼きなどさまざまな生業は、豊かな暮らしを生み出してきました。

 他地域との活発な交流と、豊かな自然の中での暮らしは、多くの宝が生み出しました。

明科はどんな場所?

  明科は、安曇野の北東側に位置します。塔ノ原と下押野をつなぐ犀川橋付近は、南から犀川、北西から高瀬川、西側から穂高川といった大きな川が集まる場所で、三川合流地点と呼ばれています。東山からは主に会田川、潮沢川が犀川に流入し、複数の川が集合した犀川は、大河となって生坂へ流れ下っていきます。明科は、松本盆地全ての川が集まる場所であり、安曇野市の標高最低地点は明科南陸郷の北端で、497メートルです。

 明科の山地は、標高700メートルから900メートルが主体的で、最高地点は池桜北側の菅野峰944メートル、長峰山の933メートルがそれに続きます。平地との比高は約200メートルで、松本盆地西側の2000メートルを超える北アルプスと対照的な低山の山地です。

明科の自然

 明科地域は野鳥の宝庫と言われており、安曇野屈指のコハクチョウやガン、カモ類の飛来地として知られ、多くの観光客やバードウォッチャーで賑わっています。御宝田遊水池や犀川では、時折珍しい野鳥を見かけることがあります。令和元年にはコウノトリが水産試験場近くで目撃されたり、海ガモのコオリガモが確認されて話題になりました。明科地域は、こうした珍客に巡り会える可能性が高い場所です。

 明科の長峰山には「蝶の森」と呼ばれる、手入れの行き届いた森林があります。ここで確認された蝶類は100種以上を超えます。長峰山の草原は、絶滅危惧種も含めた多様な草原性の動植物が生息するエリアとして、注目されており、自然観察会なども度々行われています。長峰山の草原は、その景観や開花植物の美しさだけではなく、人間が自然とともに作り上げてきた豊かな歴史を示してくれます。

明科の特徴的な虫たち  ←明科の特徴的な虫たち

近世の明科、残る村絵図

 現在、地図は生活に欠かすことのできない必需品となっています。携帯電話の普及により、簡単に自分の位置情報を確認することができるようになりました。しかし、こうした測量を伴う地図が普及したのは、明治時代に入ってからです。それ以前は、測量を伴わない絵図が一般的でした。絵図は目的に応じて作成されました。隣地との境を表した地引絵図、用水や入会地に関する争いを解決するために作成された論所絵図などの局所的なものから、城下町全体を把握した城下町絵図、街道沿いの様子を描き記した文間延絵図など、広範囲を確認できるものもあります。その中で、江戸時代に日本全体の様子を把握するために作成されたのが国絵図です。江戸幕府は慶長、寛永、正保、元禄、天保の五度、国絵図の作成を行われていました。国絵図は、幕府が各藩に命じて国ごとの下図を提出させて作成しました。藩は割り振られた下図を作成するために、領内の村ごと村絵図の作成を命じました。明科地域では、元禄国絵図野ために作成された村絵図が、麻績組の組手代を務めていた関家の文書群に残っています。

 村絵図には、道、川(水路を含む)、家屋(寺社を含む)、山林、原野の図像が描かれ、耕地の様子や字名、施設名、方角が記入されている。図像は色分けされており、道を赤、川を青、家屋を黄色、樹木を緑で彩色してあります。

元禄11年 塔ノ原村絵図(大庄屋関氏文書、安曇野市文書館寄託)   元禄11年 明科村、潮村絵図(大庄屋関氏文書、安曇野市文書館寄託)

     ↑元禄11年 塔ノ原村絵図              ↑元禄11年 明科村、潮村絵図

 (大庄屋関氏文書、安曇野市文書館寄託)     (大庄屋関氏文書、安曇野市文書館寄託)

明科町そして安曇野市へ

 明治6年(1873年)12月大蔵卿大隈重信から布達により江戸時代、幕府領や池田組に属していた村々が合併し、明治8年(1875年)1月20日、中川手村、東川手村、七貴村、陸郷村が誕生しました。その後中川手村、東川手村、上川手村による明治13年から22年まで4年間の聨合村を経て、昭和の大合併を迎えます。

明科町と七貴村の合併調印式(昭和31年(1956年)9月19日    明科町と南陸郷の合併調印式(昭和32年(1957年)3月8日

  ↑明科町と七貴村の合併調印式            ↑明科町と南陸郷の合併調印式

   (昭和31年(1956年)9月19日)              (昭和32年(1957年)3月8日)

中村善策

 明治34年(1901年)北海道小樽市に生まれた中村善策は、風景画家として活動していました。戦時中、戦火を逃れて東京から明科の丸ヵ旅館(米屋)に疎開して来られました。当時、明科の丸ヵ旅館には歌人岡麓も疎開しており、松本の浅間温泉に疎開していた昭和初期に活躍した当代屈指の芸術家である石井柏亭を交えて芸術談義を重ね、明科に著名文化人が集まるサロンのような一時がありました。

 現在、明科公民館のロビーには中村善策が描いた「信濃は初雪」という作品が飾られています。山岳と河川、傾斜地を配することができる明科は、風景画家として生きた中村善策にとって、その美意識を叶える理想の地であったでしょう。

北アルプス連峰(明科中学校所蔵)

  ↑「北アルプス連峰」(明科中学校所蔵)

青木祥二郎

 昭和3年(1928年)、14歳の少年であった青木祥二郎は、日本画家の今尾景祥のもとで奉公をしながら絵の勉強を重ねました。今尾より「嗜みとして能を習いなさい」と言われ、能を習い始めたのが14歳8か月でした。そして昭和8年(1933年)、19歳の時、今尾の紹介で観世流片山博道の内弟子として入門しました。太平洋戦争を経て、昭和53年(1978年)5月28日、青木は能楽師として国の無形文化財(総合指定)の認定を受けます。明科町はその功績を認め、平成元年(1989年)3月17日の町議会において明科町名誉町民第1号に選定されました。青木が発起人となった「水郷明科薪能」は、現在「信州安曇野能楽鑑賞会」と名前を変え、安曇野の夏を彩る風物詩として定着しています。

青木祥二郎が描いた絵画と明科町名誉町民顕彰式典のパンフレット(平成2年(1990年))←青木祥二郎が描いた絵画(左)と

                                             明科町名誉町民顕彰式典のパンフレット(右)

                                                                 (平成2年(1990年))

 

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