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熊井啓年譜

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

1930 昭和5年   (0歳)  6月1日、父晴雄、母しずゑの3男として、長野県南安曇郡
                  豊科町(現 安曇野市)で生まれる。
1936 昭和11年  (6歳)  長野県松本市へ転居。
1943 昭和18年  (13歳) 松本市の田町小学校を卒業し、県立松本中学(現 松本深志
                   高校入学)入学。
1945 昭和20年  (15歳) 終戦
1948 昭和23年  (18歳) 旧制松本高校に入学。先輩のすすめで映画部に入る。
1949 昭和24年  (19歳) 信州大学文理学部に入学。仲間と共に演劇部を組織。

助監督時代の熊井啓
助監督時代の熊井啓

1951 昭和26年  (21歳) 関川秀雄監督の乗鞍ロケを手伝う。キャンペーンで松本を
                  訪れた今井正監督、山本薩夫監督と会う。
1953 昭和28年 (23歳) 信州大学文理学部卒業。上京し独立プロで働く。
                  関川秀雄監督の「ひろしま」「狂宴」の助監督を務める。
                  若杉光夫監督の「愛」の助監督を務める。
1954 昭和29年  (24歳) 日活が撮影所を新設し、助監督試験を受け日活入社。
1955 昭和30年  (25歳) 田坂具隆監督「女中ッ子」。久松静児監督「警察日記」ほか
                  の多くの作品の助監督を務める。
1958 昭和33年  (28歳) 助監督の仕事のかたわら、日活助監督室の仲間とシナリオ
                  同人誌「麦」の刊行を開始。5号に発表した「響きと怒り」が
                  「邪魔者は消せ」と改題して映画化されることに。
1960 昭和35年  (30歳) 前年末、肺結核のため慈恵医大病院に入院。一年半の入院中、
                  助監督の仕事は休止して、もっぱらシナリオを書く。
1962 昭和37年  (32歳) 高校の十年後輩の井口明子と結婚。

熊井啓監督と明子夫人
熊井啓監督と明子夫人

1964 昭和39年  (34歳) 監督デビュー作「帝銀事件・死刑囚」公開。
1965 昭和40年  (35歳) 「日本列島」公開。
1968 昭和43年  (38歳) 「黒部の太陽」公開。大ヒット。
1969 昭和44年  (39歳) 日活を退社。
1970 昭和45年  (40歳) 「地の群れ」公開。
                  広島テレビ放送「光と風の生涯」制作。
1972 昭和47年  (42歳) 「忍ぶ川」公開。
1973 昭和48年  (43歳) 「朝やけの詩」公開。
1974 昭和49年  (44歳) 「サンダカン八番娼館・望郷」公開。
1976 昭和51年  (46歳) 「北の岬」公開。
                  東京12チャンネル「われらの主役・王家の人々」制作。
1978 昭和53年  (48歳) 東京12チャンネル「人間・王貞治」制作。
                  「お吟さま」公開。
1980 昭和55年 (50歳) 「天平の甍」公開。
1981 昭和56年 (51歳) 「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」公開。
1982 昭和57年 (52歳) 広島テレビ「沈黙の川・37年目のヒロシマ」制作。
1986 昭和61年 (56歳) 「海と毒薬」公開。
1989 平成元年 (59歳) 「千利休・本覚坊遺文」公開。
1990 平成2年  (60歳) 「式部物語」公開。
1992 平成4年  (62歳) 「ひかりごけ」公開。
1995 平成7年  (65歳) 「深い河」公開。
                 紫綬褒章受賞。
1997 平成9年  (67歳) 「愛する」公開。
2001 平成13年 (71歳) 「日本の黒い夏 冤罪」公開。
2002 平成14年 (72歳) 「海は見ていた」公開。
2003 平成15年 (73歳) 勲四等旭日小綬賞受賞。
2007 平成19年  5月23日、死去 享年76歳。
            映画の日特別功労賞受賞。
2008 平成20年 毎日映画コンクール特別賞受賞。
             日本アカデミー賞会長特別賞受賞。

「日本の黒い夏 冤罪」撮影中の熊井啓
「日本の黒い夏 冤罪」撮影中の熊井啓