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安田 静馬|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052102 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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安田 静馬

やすだ しずま

真の教師は、何時も生徒と共に在るものだと信じ、管理職の校長になるのを嫌い、代用教員として教師生活を送る。

生年月日 1884年(明治17)
没年月日 1952年(昭和27)6月
関連地域 穂高(久保田)
職業・肩書 教育者
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 文化(教育)

経歴

穂高久保田に生れました。長野県師範学校に入学し、ショーペンハウエル・ニーチェ等に傾倒しました。20歳台で既に実存思想を持ち、西田幾多郎博士の指導により生れた信濃哲学会の幹事を務めました。仏教哲学の宇井博士に就き、木崎湖畔で受講し、読書に徹しました。1912年(大正1)から、堀金や諏訪で教頭を歴任しましたが、いつも生徒と共にいるのが真の教師であると信じ、管理職の校長になるのを嫌い、職を辞しました。その後、代用教員として、教育のために義に生き、愛と自由を求め、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の活躍をしました。1939年(昭和14)には、南安教育会の専任幹事に就任し、1950年(昭和25)まで教育会運営上の指導者となりました。1952年(昭和27)6月に、病気のため亡くなりました。

略歴譜

1884年(明治17) 0歳 穂高久保田に生れる。
    長野県師範学校に入学する。
    ショーペンハウエル・ニーチェ等に傾倒し、20歳台で既に実存思想を持つ。
    西田幾多郎博士の指導により生れた信濃哲学会の幹事を務める。
    仏教哲学の宇井博士に就き、木崎湖畔で受講と読書に徹する。
1912年(大正1)   堀金で教頭となる。
    諏訪の豊田で教頭を勤める。
    後町の教務主任を勤めていたが、いつも生徒と共にいるのが真の教師であると信じ、校長を辞退し、職を辞す。
    大町で代用教員に招かれ、8年間勤める。
    有明小学校校長を辞退し、4年間農業に従事する。
1939年(昭和14)   南安教育会の専任幹事に就任し、1950年(昭和25)まで教育会運営上の指導者となる。
1952年(昭和27)6月 68歳 病気のため亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館

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