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隠岐 正三|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052108 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

  隠岐 正三

 おき しょうぞう

 父と共に酒造業・犀川通船の継立所・旅館業を営む。私財を投じて、犀川に信犀橋を架ける。

生年月日 1826年(文政9)9月5日
没年月日 1908年(明治41)8月1日
関連地域 明科(木戸)
職業・肩書 河川交通整備功労者
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

経歴

 明科木戸に生れ、泰次郎ともいいました。家督を弟の国三郎に譲り、父と共に酒造業と、犀川通船の継立所・旅館業を営みました。1869年(明治2)の会田騒動の時、襲われることを予測して、騒動者に安値で麦を販売することを約束しましたが、煽動(せんどう)する者がいて大被害を受けました。1877年(明治10)には、小林玄秀等と共に私財を投じて、犀川に信犀橋を架けました。その後、流失したため信犀橋を2回も架け替えました。また、帆掛け舟を作って川をさかのぼったり、火の見楼を建てたりしました。信仰も深く、水難者の供養塔を建て、潮(うしお)の安国寺の創建にも尽力したほか、裏山に御嶽神社を勧請し、石仏も多く建立しました。

略歴譜

1826年(文政9)9月5日 0歳 明科木戸に生れる。泰次郎ともいう。
    家督を弟の国三郎に譲り、父と共に酒造業と、犀川通船の継立所・旅館業を営む。
1869年(明治2)   会田騒動の時に、襲われることを予測して、騒動者に安値で麦を販売することを約束したが、煽動する者がいて、大被害を受ける。
1877年(明治10)   小林玄秀等と共に私財を投じて、犀川に信犀橋を架ける。
    流失したため信犀橋を2回も架け替える。
    帆掛け舟を作って川をさかのぼったり、火の見楼を建てたりする。
    信仰が深く、水難者の供養塔を建て、潮の安国寺の創建にも尽力する。
    裏山に御嶽神社を勧請し、石仏も多く建立する。
1908年(明治41)8月1日 81歳 亡くなる。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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