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臼井 元良|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052111 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

臼井 元良写真

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臼井 元良

うすい もとよし

 眼科医。論文「凝視の研究」で医学博士号を受証し、珍しい論文として海外に紹介される。郡下十数校の校医を勤める。また、教育委員長等の要職に就き、郡下の教育行政の推進に尽力する。

生年月日 1912年(大正1)
没年月日 1978年(昭和53)2月
関連地域 堀金(田尻)
職業・肩書 眼科医
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 社会(医療厚生)

経歴

 堀金田尻に生れました。1941年(昭和16)、慈恵会医科大学卒業と同時に、慈恵会病院眼科教室助手となり、日本橋の村上眼科病院副院長として勤務しました。1948年(昭和23)には、生家で眼科医を開業し、豊科に分院を開いて、夫人と共に診療に当りながら、研究論文に取り組みました。1956年(昭和31)に教育委員に選任され、以来1971年まで4期15年間、村の教育行政の中心となって、小学校校舎の改築等施設の整備や教育施策の推進に努めました。1960年(昭和35)、「凝視の研究」をまとめて医学博士号を受証し、珍しい論文として海外に紹介されました。この間、堀金小・中学校を始め、郡下十数校の校医を勤めました。1964年(昭和39)に教育委員長に推され、1967年(昭和42)10月には、南安曇地教委連絡協議会の会長を務め、郡下の教育行政を推進しました。1978年(昭和53)2月、65歳で亡くなりました。

略歴譜

1912年(大正1) 0歳 堀金田尻に生れる。
    松本中学校(現深志高等学校)から慈恵会医科大学へ進学する。
1941年(昭和16)   卒業と同時に、慈恵会病院眼科教室助手となり、日本橋の村上眼科病院副院長として勤務する。
1948年(昭和23)   生家で眼科医を開業する。
    豊科に分院を開いて、夫人と共に診療に当りながら、研究論文に取り組む。
1956年(昭和31)   教育委員に選任され、以来1971年まで4期15年間、村の教育行政の中心となり、小学校校舎の改築等を行う。
1960年(昭和35)   「凝視の研究」をまとめて医学博士号を受証し、珍しい論文として海外に紹介される。
    この間、堀金小・中学校を始め、郡下十数校の校医を勤める。
1964年(昭和39)   教育委員長に推され、文部省の教育事情視察団の一員として、ヨーロッパ4か国を旅行する。
1967年(昭和42)10月   南安曇地教委連絡協議会の会長を兼ね、郡下の教育行政の推進に努める。
1975年(昭和50)   長野県学校保健会から表彰を受け、堀金村から功労章を受ける。
1978年(昭和53)2月 65歳 病気のため亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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