ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

臼井 弥三郎|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052114 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

臼井 弥三郎

臼井 弥三郎写真

 拡大表示

 うすい やさぶろう

 1654年(承応3) 矢原堰の開削。

生年月日 1621年(元和7)
没年月日 1690年(元禄3)5月21日
関連地域 穂高(矢原)
職業・肩書 堰開削功労者
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 経済(産業)

経歴

 穂高矢原の庄屋の家に生れました。開墾はしきりに行われていましたが、開堰は断念されていたため、弥三郎が測量し、藩主水野忠職(みずのただもと)に疎水の許可を願い出ました。再三出願しましたが許可が下りず、藩に「出願を繰り返せば重罪に処する」と戒められました。弥三郎は、はりつけの刑を覚悟して、工事の困難な場所に、自らはりつけ柱を用意して嘆願しました。藩は熱意に動かされ、工事の許可をしました。1654年(承応3)3月21日に、弥三郎堰(矢原堰)開削の事業が完成し、犀川の水が見事に通り抜けました。1690年(元禄3)5月21日に、69歳で亡くなり、1928年(昭和3)1月10日に従五位に追叙され、1936年(昭和11)11月3日には、矢原堰普通水利組合が頌徳碑を建て、その偉業を讃えました。

略歴譜

1621年(元和7) 0歳 穂高矢原の庄屋の家に生れる。
    開墾は盛んに行われていたが、開堰は断念されていたため、弥三郎が測量し、藩主水野忠職に疎水の許可を願い出る。
    再三出願したが許可が下りず、藩に「出願を繰り返せば重罪に処する」と戒められる。
    はりつけの刑を覚悟し、工事の困難な場所に自らはりつけ柱を用意して嘆願、藩は熱意に動かされ、工事の許可をする。
1654年(承応3)3月21日   事業が完成し、犀川の水が見事に通り抜ける。
1690年(元禄3)5月21日 69歳 亡くなる。
1928年(昭和3)1月10日   従五位に追叙される。
1936年(昭和11)11月3日   矢原堰普通水利組合は頌徳碑を建て、その偉業を讃える。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館

皆さまのご意見を
お聞かせください

お求めの情報が充分掲載されてましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現は分りやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?