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横山 義彦|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052125 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

横山 義彦

  よこやま よしひこ

  寺子屋師匠として32年間勤め、子弟の教育に尽す。桂園派の和歌に長じ、幾冊かの歌集・旅行記を著す。

生年月日 1803年(享和3)
没年月日 1873年(明治6)
関連地域 豊科(小海渡)
職業・肩書 歌人
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 文化(文芸)

経歴

  豊科小海渡の庄屋の家に生れました。好んで和漢の学を修め、書に長じ、熊倉に移り住んでいた京都の藤木光好に国学を学びました。和歌は、丸山保秀と共に安曇地方の桂園派の重鎮で、四季または檪園(れきえん)と号し、晩年は、内山真弓とも親交がありました。1833年(天保4)に村民の依頼によって、寺子屋師匠となり、32年間勤めました。1843年(天保14)、伊勢大神宮に詣で、京阪神・中国地方旅行へ回り、旅行記「都路の日記」を残しました。続いて1849年(嘉永2)には、諏訪神社に詣で、日光・足尾・妙義を経て帰郷し、旅行記「東路の日記」を残しました。1852年(嘉永5)、上級弟子の参考書として、日常必要な漢字4,000字を集めた「撰輯(せんしゅう)用字」を著しました。1856年(安政3)、門弟が寿碑を建てました。1859年(安政6)に、春夏秋冬等題詠330首を収めた「櫟葉集」を著しました。1873年(明治6)、70歳で亡くなりました。

略歴譜

1803年(享和3) 0歳 遠祖左馬亟実秀八世の孫として、豊科小海渡の庄屋の家に生れる。
    好んで和漢の学を修め、書に長じ、熊倉に移り住んでいた京都の藤木光好に国学を学ぶ。
1833年(天保4)   村民の依頼によって、寺子屋師匠となり、32年間勤める。
1843年(天保14)   伊勢大神宮に詣で、京阪神地方・中国地方旅行へ回る。旅行記「都路の日記」を残す。
1849年(嘉永2)   諏訪神社に詣で、日光・足尾・妙義を経て帰郷する。旅行記「東路の日記」を残す。
1852年(嘉永5)   上級弟子たちのために、日常必要な漢字4,000字を集めた「撰輯用字」を著す。
1856年(安政3)   生前に、門弟が寿碑を建てる。
1859年(安政6)   春夏秋冬等題詠330首を収めた「櫟葉集」を著す。
1873年(明治6) 70歳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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