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岡村 勘兵衛|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052127 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

 

岡村 勘兵衛

  おかむら かんべい

  拾ヶ堰の開削。

生年月日 1778年(安永7)
没年月日 1868年(慶応4)2月27日前後
関連地域 豊科(吉野)
職業・肩書 庄屋
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 経済(産業)

経歴

  豊科吉野の庄屋の家に生れました。幼名は良茂。父親の跡を継いで庄屋となった勘兵衛は、吉野村以北・以南の村々は、灌漑(かんがい)の便に乏しく水田化が遅れていたため、奈良井川の水の利用を考えていました。1801年(享和1)に、保高村から来た白沢民右衛門・元右衛門と共に、奈良井川の取水による堰開削の相談をしました。そして、堰の開削方を検分し、水路の開削を願い出ましたが、藩は事業の容易でないことを察して、許可しませんでした。勘兵衛は、難題を越えるべく、同志と共にひそかに測量等の計画を立てました。1814年(文化11)、岡村勘兵衛・六郎右衛門・白沢民右衛門・中島輪兵衛・関与一右衛門の名義によって、内願書が差し出されました。工事は、1816年(文化13)2月から始められ、勘兵衛は、専ら工事人夫の割当とその賃金の調達と支払いを担当しました。経費が巨額になり、賃金の支払いに窮する中、それを乗り越えて、5月に見事に竣工しました。1868年(慶応4)2月、90歳で亡くなりました。

略歴譜

1778年(安永7) 0歳 豊科吉野の庄屋の家に生れる。
1801年(享和1)   保高村から来た白沢民右衛門・元右衛門と共に、奈良井川の取水による堰開削の相談をする。
堰の開削方を検分し、水路の開削を願い出たが、藩は事業の容易でないことを察して、許可をしない。 
難題を越えるべく、同志と共にひそかに測量等の計画を立てる。
1814年(文化11)   岡村勘兵衛・六郎右衛門・白沢民右衛門・中島輪兵衛・関与一右衛門の名義で、内願書を差し出す。
1816年(文化13)   開削は2月から始められ、勘兵衛は、専ら工事人夫の割当とその賃金の調達と支払いを担当する。5月に見事に竣工する。
1816年(文化13)    藩主から独御礼の重賞を受ける。
1868年(慶応4)2月27日前後 90歳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
穂高町誌第二巻 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
堀金村誌上巻 堀金村誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館

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