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下里 伊右衛門|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

下里 伊右衛門

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 しもさと いえもん

 明科七貴で庄屋を勤め、高瀬川や犀川の川除普請に尽力する。

生年月日不詳
没年月日不詳
関連地域明科(下押野)
職業・肩書庄屋
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野経済(産業)

経歴

  明科下押野に生れました。庄屋を勤め、高瀬川や犀川の川除普請(かわよけふしん:堤防の建設)に尽力しました。寛政年間に、押野村と塔ノ原・明科村との犀川の普請争いをした時は、松本藩の郡手代横山熊右衛門を頼み、犀川へ68間の川除普請を行いました。しかし、塔ノ原・明科村では、本瀬が東側へ突き当るとして訴訟を起しました。押野村のために、いろいろと手を尽しましたが、押野村全体の協力が得られず、訴訟に負けて、普請は全部取り払うことになりました。普請の監督に当った横山熊右衛門は、責任を感じ松本へ帰り、切腹しました。伊右衛門は、「御一命をお捨てになられた御恩は、子孫まで決して忘れるではないぞ」と言って同志とはかり、犀川べりに横山様の社を建てて祀りました。

略歴譜

生年不詳0歳明科下押野に生れる。
  庄屋を勤め、高瀬川や犀川の川除普請に尽力する。
寛政年間 押野村と塔ノ原・明科村との犀川の普請争いで、松本藩の郡手代横山熊右衛門を頼み、犀川へ68間の川除普請をする。
  塔ノ原・明科村では、本瀬が東側へ突き当るとして訴訟を起す。
  押野村のために、いろいろと手を尽したが、村全体の協力が得られず、訴訟に負けて普請は全部取り払うことになる。
  普請の監督に当った横山熊右衛門は、責任を感じ松本へ帰り、切腹する。
  「御一命をお捨てになられた御恩は、子孫まで決して忘れるではないぞ」と言って、同志と横山様の社を建てて祀る。
没年不詳 亡くなる。

参考文献

明科町史明科町史編纂会/編安曇野市立図書館