ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

会田 貢|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052140 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

会田 貢

会田 貢写真

 拡大表示

 あいだ みつぐ

 地方ジャーナリスト。「血涙」の号を持ち、豊科で1911年(明治44)から太平洋戦争後の1951年(昭和26)まで地方雑誌「信濃不二」を発刊した。

生年月日 1876年(明治9)
没年月日 1951年(昭和26)
関連地域 穂高(富田。豊科成相に在住。)
職業・肩書 地方ジャーナリスト
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 社会(報道出版)

経歴

 穂高富田に生れました。信濃毎日新聞社通信員、日露戦争従軍記者等の仕事に従事しました。1911年(明治44)、穂高の小川昇によって発行されていた地方雑誌「信濃富士」の後を継いで、「信濃不二」の名で発行しました。豊科成相に在住して、ペンネームを会田血涙(あいだけつるい)といいました。文人・地方ジャーナリストとして、他に類例を見ない、地方雑誌「信濃不二」を、1951年(昭和26)までの33年間(言論・用紙統制等による休刊を除く)に425号を発行しました。また「毒舌悪筆」(コラムで世相を風刺)、従軍記事(穂高上原出身の画家小室孝雄の従軍記を連載)も発表しました。1951年(昭和26)に75歳で亡くなりました。

 「信濃不二」は、その後妻信乃子が発行人となり、1954年(昭和29)年462号まで発行しました。

略歴譜

1876年(明治9) 0歳 穂高富田に生れる。
    信濃毎日新聞社通信員、日露戦争従軍記者等の仕事に従事する。
1911年(明治44)   穂高の小川昇によって発行されていた地方雑誌「信濃富士」の後を継いで、「信濃不二」の名で発行する。
    豊科成相に在住して、ペンネームを会田血涙という。
    1951年(昭和26)まで33年間(言論・用紙統制等による休刊を除く)に425号を発行する。
1951年(昭和26) 75歳 亡くなる。

参考文献

豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

皆さまのご意見を
お聞かせください

お求めの情報が充分掲載されてましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現は分りやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?