ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

丸山 久左衛門|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0051997 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

丸山 久左衛門

 まるやま きゅうざえもん

 重柳地区の犀川川除(かわよけ)工事の際に起きた紛争を仲裁し、見事に示談に導く。

生年月日 1770年(明和7)
没年月日 1841年(天保12)
関連地域 豊科(重柳)
職業・肩書 水防功労者
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 社会(社会事業)

経歴

 豊科重柳に生れました。屋号を「伊勢宮」といい、近くに「伊勢宮」が祀(まつ)られています。犀川から洪水が襲う重柳耕地の頭首部に当ることから、伊勢神道による水防の神、天照大神(内宮・太陽の力による防水神)が祀られています。1783年(天明3)5月・7月に、大洪水が重柳耕地を襲い、田畑の大半が流失して、両岸の築堤はほとんど破壊されました。その復旧工事には、両岸各村の利害得失がからむため、長年にわたって紛争と示談が繰り返されましたが、久左衛門65歳の時、犀川川除工事の紛争で、「立入り」といって仲裁役に入り、見事に示談に導きました。1841年(天保12)に、71歳で亡くなりました。後の1900年(明治33)に、県営事業で本格的な堤防工事ができ、以来、耕地化が進み、重光堰が灌漑(かんがい)しています。

略歴譜

1770年(明和7) 0歳 豊科重柳に生れる。屋号を「伊勢宮」という。
1783年(天明3)5月・7月   大洪水が重柳耕地を襲い、田畑の大半が流失して、両岸の築堤はほとんど破壊される。
  65歳 犀川川除工事の紛争で、「立入り」といって仲裁役に入り、見事に示談に導く。
1841年(天保12) 71歳 亡くなる。
1900年(明治33)   県営事業で本格的な堤防工事ができ、以来、耕地化が進み、重光堰が灌漑している。

参考文献

豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

皆さまのご意見を
お聞かせください

お求めの情報が充分掲載されてましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現は分りやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?