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丸山 伝右衛門|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

丸山 伝右衛門

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 まるやま でんえもん

 庄屋・越庄屋として先頭に立ち、平林義右衛門・米倉彦三郎らと掘廻(ほりまわし)堰の開削に尽力する。

生年月日1808年(文化5)
没年月日1868年(慶応4)
関連地域堀金(小田多井)
職業・肩書越庄屋
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野経済(産業)

経歴

 堀金小田多井に生れました。長じて小田多井村庄屋となり、堰関係に手腕を発揮して、他村の越(こし)庄屋となりました。当時は、大雨で黒沢・鳴沢が増水するたびに災害が発生し、小田多井・田尻・田多井南部では、その災害防止と復旧に多大な労力を費やしていました。伝右衛門は、小田多井堰の余り水(悪水)を払うため、新堰を開削しようと考え、上堀金村の庄屋平林儀右衛門及び上堀の組頭(くみがしら)米倉彦三郎らと共に堰願人となり、世話役を勤めて先頭に立って尽力しました。松本藩による3回の下見を経て、1861年(文久1)3月12日から掘り立てを始め、延べ約4万4,000人の人足を用いて、住吉神社南から扇町を経て柏原の松林まで、約1か月を費やして掘り立てを終え、4月17日、掘廻堰に通水がなされました。

略歴譜

1808年(文化5)0歳堀金小田多井に生れる。
  長じて小田多井村庄屋となり、堰関係に手腕を発揮して、他村の越庄屋となる。
  大雨で黒沢・鳴沢の増水のたびに災害が発生し、小田多井・田尻・田多井南部では、対策に多大な労力を費やす。
  小田多井堰の余り水(悪水)を払うため、新堰を開削しようと考える。
  上堀金村の庄屋平林儀右衛門及び上堀の組頭米倉彦三郎らと堰願人となり、世話役を勤め先頭に立ち尽力する。
1861年(文久1)3月12日 松本藩による3回の下見を経て、掘り立てを始める。
  延べ約4万4,000人の人足を用い、住吉神社南から扇町を経て柏原の松林まで、約1か月を費やして掘り立てを終える。
1861年(文久1)4月17日 掘廻堰に通水がなされる。梓川用水掛り役同融通役を勤め、堀廻堰開削に当って、竣工に導く主動力となる。
1868年(慶応4) 亡くなる。
  その後、掘廻堰は、板花孫蔵を始め、多くの人々によって改修され、小田多井から遠く扇町に通じ、広い耕地を潤している。

参考文献

堀金村誌堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編安曇野市立図書館