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丸山 保秀|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052006 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

丸山 保秀

 まるやま やすひで

 香川景樹に師事して歌道を究めるとともに、松本平で活躍して、多くの桂園派の歌人を輩出する。

生年月日 1798年(寛政10)
没年月日 1868年(慶応4)2月18日
関連地域 豊科(成相)
職業・肩書 歌人
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 文化(文芸)

経歴

  豊科成相の代々庄屋の家に生れました。通称市之助といい、晩年は青葉岡老樵(ろうしょう)、青葉の岡の主と号しました。初め北川真顔に和歌を学び、後に京都に上り、桂園派の祖といわれる香川景樹に師事して歌道に精進し、その名を知られるようになりました。さらに、飛鳥井大納言雅経の門に入り、保秀の名を賜り、孝明天皇が詠歌を御覧になり、「詠歌達者の者」とのお言葉があったといわれています。生来旅を好み、特に四国の金刀比羅宮には二十数回、吉野山では半生を過し、長崎にも遊学しました。また、南安曇地方の歌壇で活躍し、横山義彦と共に、藤森寿平等多くの門下生を輩出しました。1850年(嘉永3)、中沢重樹・荻原貞起等と、桂園派の歌論を唯一順序立てた、「歌学提要」を編集し出版しました。

略歴譜

1798年(寛政10) 0歳 豊科成相の代々庄屋の家に生れる。通称市之助といい、晩年は青葉岡老樵と号す。
    北川真顔に学び、後に京都に上り、桂園派の祖といわれる香川景樹に師事して歌道に精進し、その名を知られる。
1843年(天保14)   京都で歌壇革新の籏を上げた香川景樹の追悼会で詠歌を作る。
    飛鳥井大納言雅経の門に入り、保秀の名を賜り、孝明天皇が詠歌を御覧になる。
    生来旅を好み、特に四国の金刀比羅宮には二十数回、吉野山では半生を過し、長崎にも遊学する。
    遊学の際、医術を覚え、郷里では人々に医療を施し、その徳を讃(たた)えられる。
    南安曇地方の歌壇で横山義彦と活躍し、歌人藤森桂谷等多くの門下生を輩出する。
1850年(嘉永3)   中沢重樹・荻原貞起等と、桂園派の歌論を唯一順序立てた、「歌学提要」を編集し出版する。
1868年(慶応4)2月18日 70歳 病気のため亡くなる。

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