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牛越 茂左衛門|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052016 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

牛越 茂左衛門
うしこし もざえもん

10年余をかけ、私財を投げ打って、押野より小泉まで延長3里余の五カ用水を開削する。

生年月日 不詳
没年月日 1852年(嘉永5)8月
関連地域 明科(小泉)
職業・肩書 庄屋
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 社会(社会事業)

 

経歴

明科小泉の庄屋の家に生れました。当時、用水路は、押野・塩川原・荻原の3か村のみの灌漑であったため、中村の庄屋遠藤丈四郎とはかり、深見沢に堤防を築き水を貯えようと大工事をしましたが、大雨毎に決壊しました。そこで、荻原から堰を延長し、小泉の北端に達するように、再三藩に許可を願い出ました。三か村用水堰の幅員も広げる大工事となるため、池田村の村々に協力を求め、1832年(天保3)3月、工事がほぼ終了しました。この新田開発で、中村・小泉で約40町歩(以前の10倍)、荻原でも約10町歩の田ができました。押野より小泉まで延長3里余、五カ用水と言いました。茂左衛門は、10年余をかけ、私財を費やして困窮し、江戸に出て、1852年(嘉永5)、72歳で亡くなりました。

略歴譜

生年不詳   明科小泉の庄屋の家に生れる。
    中村の庄屋遠藤丈四郎とはかり、中村の南端の深見沢に堤防を築き、水を貯えようと大工事を起す。
    大雨ごとに決壊したため、荻原より堰を延長して小泉の北端に達するように計画し、松本藩に再三許可を願い、認可を受ける。
    三か村用水堰の幅員も広げる大工事となるため、藩に許可を願い、池田組の村々に協力を訴える。
1831年(天保2)10月   郡奉行や代官の派遣を仰ぎ、池田組として工事を行う。
1832年(天保3)3月   工事がほぼ完了する。
    他村の工事は進まず、水が洩れて流水せず、割腹を覚悟したが、大雨が降り、水路が溢れ工事が成功する。
    この年の新田開発は、中村・小泉の二か村で約40町歩となり、以前の10倍もの水田ができる。
    藩の事業としてたびたび大改修を加え、荻原村でも約10町歩の畑が田となる。
    藩より、協力者遠藤丈四郎と共に賞賜を受ける。
1837年(天保8)   私財をことごとく工事に投入して困窮し、庄屋を子に譲り、江戸に出る。
1852年(嘉永5)8月 72歳 江戸で亡くなる。
    子の泉太郎も負債に苦しみ、庄屋を辞める。

参考文献

  • 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌別篇人名 東筑摩郡・松本市・塩尻市/編  安曇野市立図書館
  • 明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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