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江戸時代/拾ケ堰の開削|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051977 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

常念岳

現在の拾ヶ堰から常念岳を望む

安曇野の美観をつくり出した先人たちの尽力

安曇野は平地が拡がり豊かなところと思っている人が多くおります。
北アルプスから流れ出るいくつかの川が土を堆積して出来上がった複合扇状地が安曇野ですが、扇状地は本来農業には不向きな地形です。堆積した土が粒の大きい砂礫のため、川の水や降った雨が地中に浸透してしまい、広い土地といっても、乾燥して痩せた土壌で、むかしから原野と畑の貧しい土地柄だったのです。
この不利を大きく変えたのが、1816年(文化13)の拾ケ堰の開削でした。転換の大きな鍵となったのが、いままで使っていた北アルプスから流れる川でなく、東を流れる奈良井川や犀川から大量で季節によって量が変化しない水をどう引いてくるか、でした。

保高組の庄屋、柏原の中島輪兵衛は安曇野が浅い皿状の地形であることを見抜き、等高線570mの地点を開削すれば広い範囲に灌漑できると予測します。この予測を信じて大庄屋代理となった等々力孫一郎は、周辺の村々によびかけ、十カ村が団結して大事業に当たることになります。
柏原の南部の原野は、古くから周辺の村々の入会地になっていましたが、その独占をめぐって対立が続き、とくに保高組と豊科の成相組との怨念の激しさはだれもが知っている事柄でした。大事業を目前にして、その対立を乗り越えて十カ村が団結できたことは、事業を大きく前進させました。

下堀村の平倉六郎右衛門、成相組の藤森善兵衛、吉野村の岡村勘兵衛、等々力町村の白沢民右衛門、それに中島輪兵衛、等々力孫一郎の連帯。67,000人の村人の労働力。
全長15kmの横堰の実現は、現在の安曇野の夜明けとなりました。
県下有数の米どころ、田んぼの向こうに屋敷林に包まれた土蔵や民家が点在、さらにその遥かかなたに白雪を頂く北アルプスの山々が展望できる、まさに安曇野ならではの美観の誕生です。住民の自治的な活動の成果です。
それから200年の足取りを経て現在があります。

人間の暮らしに不利な扇状地を豊かに変えた先人たちの活動は、その後も続きます。
扇端の湿地地帯が、常温13℃の地下水を利用してわさび栽培に、扇頂の山麓地帯が、中房谷からの引湯を粘り強く続けて、パイプの材質を竹・松・ウレタン樹脂と替えて、江戸時代以来の懸案を1972年(昭和47)に解決するなど、先人たちの智と美と意志の力には頭が下がります。

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