江戸時代/集落の道祖神と寺子屋教育の広がり|安曇野市ゆかりの先人たち
集落ごとに暮らしを見守り続ける双体道祖神
幕末、村落は息づき、祈りと智が育つ
安曇野は、道祖神の宝庫です。それも男女2人がペアになった“双体道祖神”が、全国的にも多い地域と言われ、穂高地区だけでも120体を越える道祖神が、いまも道の辻に静かにたたずんでいます。男神と女神がしっかりと肩を抱き合い、手を握ったり酒器を持ったりその姿はさまざまです。
作られた時代は、ほとんどが今から200年ほど前の江戸(文化・文政)時代。50年後には明治を迎えるという時期でした。この時代は、水の乏しかった安曇野に拾ケ堰(じっかせぎ)を始めとする堰がひかれ、しだいに耕地が広がって米どころへと進んできた時代でもありました。
道祖神の神々は、目の前で人間が繰り広げる数々のドラマを、どんな思いで見守ってきたのでしょう。水に関わる争いごとや天災、はやりの病など、切なる願いや祈りを受けとめ、子どもからお年寄りまで、暮らしの中で心のよりどころとした身近な神様であったのでしょう。夫婦和合、子孫繁栄を願い、多くの人の命を愛して見守り続け、村落の歴史を優しく大らかに見守ってきた、庶民の神様なのです。
そしてこの文化・文政以降の安曇野には、寺子屋がたくさんうまれ、寺子屋教育が最も盛んに行われ広がっていった時代です。寺子屋で教えるのは、当初僧侶や武士でしたが、時代が進むにつれて農民、それも村役人を務める豪農層がその任務にあたったといいます。
早くから寺子屋を開業した穂高では、1766年(明和2)から飯島びん山が子どもたちを教え始めて以来、5代に渡って書や文章などを学ばせました。この「智学院」と医者の高島章貞の「星園塾」は周辺の村々へと影響を広げました。
三郷では、歌人でもある務台伴語が、三郷小学校、中学校の前身となる寺子屋「温知堂」で子どもたちを教えています。記録には、旧南安曇郡下で、明治初期までに合わせて555の寺子屋があったと数えられています。また、いまも穂高地区内には十数基におよぶ筆塚が残っていて、寺子屋師匠の業績を物語っています。
これらの寺子屋では変革期にふさわしい人間の育成に重点をおいた教育がなされました。安田庄司の寺子屋では、幕末期の庶民教育に貢献しただけでなく、明治初期の近代学校へ引き継ぐ重要な役割を果たした、と柏原村の村落史に記されています。