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高橋 啓|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052150 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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高橋 啓
たかはし ひらく

片倉工業株式会社に入社後、独学で仕事に没頭し、様々なビジネスを展開、東新興業株式会社を設立し、後にプラスチック株式会社及び音響機器輸出のためのミリオン株式会社を設立し、東新グループとして事業を発展させ、また民間外交に尽力した。

生年月日 1909年(明治42)
没年月日 1988年(昭和63)
関連地域 堀金(田多井)
職業・肩書 実業家
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

堀金田多井に生れました。1923年(大正12)に上京し、片倉工業株式会社に入社し、八王子製糸所へ配属され、独学力行して仕事に没頭しました。27歳で富国火災と片倉生命の保険部長となり、八王子支店長になりました。1943年(昭和18)、独力で軍需工場中野航空工業をつくり、航空機の発電機等を海軍に納めました。1945年(昭和20)、美容院の経営を思い立って開店し、7店目は豊科に進出する程の盛況となりました。1948年(昭和23)、今井五六の求めにより、第一火災海上保険相互会社の設立に参画、その後、大宝証券株式会社の経営に就きました。1955年(昭和30)、東新興業株式会社を設立し、東新プラスチック株式会社及び音響機器輸出のためのミリオン株式会社を設立し、各社を総合して東新グループとしました。1988年(昭和63)、79歳で亡くなりました。

略歴譜

1909年(明治42) 0歳 堀金田多井に生れる。
1923年(大正12)   上京し、片倉工業株式会社に入社し、八王子製糸所へ配属され、独学で仕事に没頭する。
  27歳 富国火災と片倉生命の保険部長となり、八王子支店長になる。
1943年(昭和18)   独力で軍需工場中野航空工業をつくり、航空機の発電機等を海軍に納める。
1945年(昭和20)   美容院の経営を思い立ち、「ニューコロン美粧院」を開店する。7店目は、豊科に進出する程の盛況となる。
1948年(昭和23)   今井五六の求めにより、第一火災海上保険相互会社の設立に参画、その後、大宝証券株式会社の経営に就く。
1955年(昭和30)   東新興業株式会社・東新プラスチック株式会社及び音響機器輸出のためのミリオン株式会社を設立し、東新グループとする。
    細胞組織のような工場拡張を考え、八王子から山梨にかけて105社の協力工場をつくる。
    事業を通して社会公共のために役立ちたいと願い、自ら年に7から8回海外へ行き、ビジネスの処理と共に民間外交をも果す。
1971年(昭和46)   穂高高原に「東新ほたか温泉寮」をつくったり、海外視察派遣制度を設ける等ユニークな経営に努める。
    常に高邁(こうまい)な経営理念に徹し、「東新シンクタンク構想」に基づいて研究に取り組み、事業の発展を図る。
1988年(昭和63) 79歳 亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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