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高島 章貞|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052155 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

高島 章貞の写真

拡大表示 © 制作 征矢野久

高島 章貞
たかしま しょうてい

医師、私塾・星園塾師匠。松沢求策・望月忠蔵の師。

生年月日 1804年(文化1)
没年月日 1869年(明治2)
関連地域 穂高(東穂高)
職業・肩書 医師・文学者・塾
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 社会(医療厚生)

 

経歴

穂高東穂高に生れました。祖父の代からの医業を継ぎ、外科に秀でていました。医学と文学の研究を行いました。穂高で星園塾を開き、自由民権家松沢求策、教育家胡桃儒策、実業家望月忠蔵、南安曇郡最初の県会議員小川為一郎等を養成しました。歌人・国学者の橘千陰と並び称され、かなは香川景樹に私淑(ししゅく)し、士気のみなぎる書風で知られていました。碑文では、穂高白金の望月びん重筆塚、豊科重柳の馬頭観音、穂高等々力の庚申塔(こうしんとう)、穂高荒屋の百穀豊登の石碑、明科の丸山庄蔵筆塚に自筆の和歌を残しました。1869年(明治2)に勤王運動が高まり、京都へ行く途中、近江(滋賀県)で急な病に倒れ、亡くなりました。

略歴譜

1804年(文化1) 0歳 穂高東穂高に生れる。祖父の代から医業が継がれている。
    香川景樹に入門し、桂園派の和歌に長じる。
    医師となって周遊し、医学と文学を研究する。外科に秀でる。
    穂高に帰り、星園塾を開く。
    経史・詩文・諸子及び国学に精通し、和歌は香川景樹についてその道を深め、傍ら仏典を修めて造詣も深い。
    多くの弟子の中で、最も優れた弟子は松沢求策であった。
1869年(明治2)   招令を受けて京都へ急ぐも、大津で急な病に倒れ、亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
安曇野の美術 丸山楽雲/編 安曇野市立図書館

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