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佐々木 重雄|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052161 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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佐々木 重雄
ささき しげお

南安曇郡会議員・蚕糸会社の設立、経営・烏川村農地委員長等の要職に就き、製糸・養蚕家双方に利便をもたらし、農業近代化の推進に貢献する。

生年月日 1880年(明治13)
没年月日 1950年(昭和25)2月
関連地域 堀金(中堀)
職業・肩書 蚕糸会社の設立、経営・農地改革推進の功労者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

堀金中堀に生れ、松本中学校(現深志高等学校)3年の時、日本農業大学の創設者横井博士の学徳を敬慕して同大学に転入しました。日本農業大学を卒業後、長野県庁の嘱託として、蓮華(れんげ)種子の集荷に、毎年岐阜県へ出張しました。第一次世界大戦後の恐慌の時、近隣の負債の面倒を見るため、多くの農地を背負い込むようになりました。1919年(大正8)、南安曇郡会議員に選出され、郡の政界で活躍しました。昭和初年より郡下の有志数名と豊科に蚕糸会社を設立し、終戦時まで順調に経営を続けて、製糸家・養蚕家双方に利便をもたらしました。終戦後の農地解放期には、推されて烏川村農地委員長に就任し、自作農創設に尽力して、自ら40ヘクタールに及ぶ所有農地を解放し、農業近代化の推進に貢献しました。

略歴譜

1880年(明治13) 0歳 堀金中堀に生れる。
    松本中学校3年の時、日本農業大学の創設者横井博士の学徳を敬慕して同大学に転入する。
    日本農業大学を卒業後、長野県庁の嘱託として、蓮華種子の集荷に、毎年岐阜県へ出張する。
    第一次世界大戦後の恐慌の時、近隣の負債の面倒を見るため、多くの農地を背負い込むようになる。
1919年(大正8)   南安曇郡会議員選出され、郡の政界で活躍する。
昭和初年   昭和初年より郡下の有志数名と豊科に蚕糸会社を設立する。
    終戦時まで順調に経営を続けて、製糸家・養蚕家双方に利便をもたらす。
    終戦後の農地解放期には、推されて烏川村農地委員長に就任し、自作農創設に尽力する。
    自ら40ヘクタールに及ぶ所有農地を解放し、農業近代化の推進に貢献する。
1950年(昭和25)2月 70歳 亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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