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山口 蒼輪|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

山口 蒼輪の写真

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山口 蒼輪
やまぐち そうりん

日本美術院院友となる。自然を新しい感覚でとらえ、細密な画法によって独得な画風を確立する。

生年月日1913年(大正2)
没年月日1950年(昭和25)6月26日
関連地域堀金(岩原)
職業・肩書日本画家
活躍年昭和時代
ゆかりの分野文化(芸術)

 

経歴

堀金岩原に生れ、本名を肇といいました。堀金小学校を経て、松本の付属小学校を抜群の成績で卒業した後、絵を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に2年間学びました。1928年(昭和3)に上京して、日本美術学校(現日本美術専門学校)の予科に入学し、続いて本科に通い、古画・装飾画の模写研究を始め、自然描写に魂を打ち込んで勉強しました。在学中、第一作の大額面の「草」が、当時わが国最高の権威であった日本美術院展覧会に入選しました。続いて、院展春の試作展か秋の本展のどちらかに毎年入選しました。1935年(昭和10)、日本美術院の院友に推挙されました。1940年(昭和15)には、精魂を傾けて描いた作品「芭蕉」が、紀元2600年奉祝画展推薦になり、外務省に買い上げられ、アメリカ大使館に納められました。戦後、画友と銀嶺会や春風会を結成し、中信地区や全県の日本画の発展のために尽しました。1950年(昭和25)、37歳で病気で亡くなりました。

略歴譜

1913年(大正2)0歳堀金岩原に、銀行家山口誠象の長男として生れる。本名を肇という。
  堀金小学校を経て、松本の付属小学校を抜群の成績で卒業する。
  絵を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に2年間学ぶ。
1928年(昭和3)15歳上京し日本美術学校の予科に入学し、続いて本科に通い、古画・装飾画の模写研究を始め、自然描写に魂を打ち込んで勉強する。
1929年(昭和4)16歳中村岳陵教授に認められて内弟子となる。
1930年(昭和5)17歳蒼野社画塾に入り、岳陵から夜明けの日輪にたとえて「蒼輪」の号を与えられる。
 18歳在学中、第一作の大額面の「草」が、当時わが国最高の権威であった日本美術院展覧会に入選する。
  続いて、院展春の試作展か秋の本展のどちらかに毎年入選する。
1935年(昭和10) 日本美術院の院友に推挙される。
1940年(昭和15) 精魂を傾けて描いた作品「芭蕉」が、紀元2600年奉祝画展推薦になり、外務省に買い上げられ、アメリカ大使館に納められる。
  師の中村画伯が、「蒼輪の画面は清く、構想は清新、色彩美しく、秀才型の青年画家」と評す。
  財界人渡辺英造が主催した成蹊会の、年2、3回開かれる画展で好評を博す。
  戦後、野本文雄ら画友数名と、松本で銀嶺会を結成、また保尊良朔ら中信地区日本画家と春風会をおこす。銀嶺会は、後に中信美術会を経て信州美術会となる。
1950年(昭和25) 中信美術会の委員となって、同会日本画部の発展に尽す。全信州展(現県展)の審査員として活躍する。
1950年(昭和25)6月26日37歳病気で亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下                                                                          南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
堀金村誌堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編安曇野市立図書館