ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 安曇野市ゆかりの先人たち > 狩野 梅玄|安曇野ゆかりの先人たち

狩野 梅玄|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

写真はありません

狩野 梅玄
かのう ばいげん

狩野派の画家。狩野梅笑の門に入り、やがて江戸御絵所画員となり、幾多の傑作を残す。

生年月日不詳
没年月日不詳
関連地域豊科(細萱)
職業・肩書日本画家
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野文化(芸術)

 

経歴

姓は小口氏、名は周蔵、藤原賢安とも藤原梅玄とも称しました。
豊科細萱の洲波神社東方に「周蔵屋敷」という場所があり、そこに住んでいたといわれています。穂高白金出身の狩野梅二に学び、長じて梅二と同様に江戸に出て、当時、名の高かった狩野梅笑に入門しました。梅笑に認められて狩野梅玄の画号を許され、やがて江戸御絵所画員となりました。1819年(文政2)、州波神社の奉額を作成しました。このほかに、明科宗林寺鐘楼の天井絵「雲龍の図」、浅川貞之氏所蔵の大作「琴棋書画図屏風」(六曲一双)等を作成しました。作品等から総合すると、狩野梅玄は、文化・文政(1804から1830年)頃に活躍した狩野派の画家で、襖絵・屏風絵等を主とした室内装飾画の絵師でした。また、俳句・茶の湯にも通じていました。

略歴譜

生年不詳0歳生れる。
  姓は小口氏、名は周蔵、藤原賢安とも藤原梅玄とも称す。
  豊科細萱の洲波神社東方に「周蔵屋敷」という場所があり、そこに住んでいたといわれる。
  穂高白金出身の狩野梅二に学ぶ。
  長じて、梅二と同様に江戸に出て、当時、名の高かった狩野梅笑に入門する。
  認められて狩野梅玄の画号を許され、やがて江戸御絵所画員となる。
1819年(文政2) 州波神社の奉額を作成する。
没年不詳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下                南安曇郡誌改訂編纂会/編   安曇野市立図書館
豊科町誌豊科町誌編纂会/編安曇野市立図書館
安曇野の美術丸山楽雲/編安曇野市立図書館