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十返舎 一九|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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十返舎 一九
じっぺんしゃ いっく

江戸後期の戯作者。文化年間に「続膝栗毛 八編 従木曽路善光寺道」で、安曇野地域を広く紹介。

生年月日1765年(明和2)
没年月日1831年(天保2)8月7日
関連地域その他(駿河国。豊科・穂高を訪れる。)
職業・肩書作家
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野文化(文芸)

 

    経歴

    駿河国府中(静岡市)に奉行所同心の子として生れました。本名は重田貞一、字(あざな)は駿陽、幼名は市九と称しました。駿府町奉行小田切土佐守直平に仕えました。1784年(天明4)に、小田切土佐守直平が江戸に出るに及んで、江戸屋敷で帳簿整理等の仕事をしました。1787年(天明7)、土佐守が大坂町奉行になり、一緒に同地へ赴きましたが、その後間もなく、武士を辞めました。
    1789年(寛政1)に、近松東南の弟子となり、近松余七の名で浄瑠璃(じょうるり)「木下陰狭間合戦」の作者の一人として名を連ねました。その後、頼まれて材木問屋角屋に勤めましたが、作家としての道を捨てがたく、1793年(寛政5)、再び江戸へ出ました。地本問屋蔦屋重三郎店で職人となり、挿絵や錦絵等を手掛けました。山東京伝作の黄表紙本「初役 金烏帽子魚」に挿絵を描き、初めて一九の名が載りました。これがきっかけとなって、翌年に自画自作(筆)の「心学時計草」ほか2点の黄表紙本を出版しました。1796年(寛政8)には、「初登山手習方帖」のほか、自画自作黄表紙20点を刊行しました。
    1801年(享和1)、一九は小説(戯作者)で自立することを決意しました。翌年、初の紀行文「南総紀行旅硯石」を手始めに、「東海道中膝栗毛」初編、「江戸より箱根」を始め、この年に29点ほど刊行しました。「膝栗毛」はベストセラーとなり、一躍作家としての名を決定的にしました。
    松本の出版業者高見甚左衛門の招きで、1814年(文化11)7月30日に、木曽路より善光寺道の現地踏査のため、板木師花垣を連れて松本を訪れました。一九は甚左衛門の案内で、花垣と共に安曇地方を訪れ、同年8月11日に、豊科成相新田村の藤森善兵衛(新田園長丸)宅に一泊しました。翌日、栗尾満願寺に参詣し、そこに十日間程滞在し、「栗尾観音・松尾薬師・宮城不動」の三霊場を含む、北アルプス山麓を取材しています。8月28日に満願寺の隠居が同道して、松本(高美屋)を出立し、糸魚川(千国)街道で大町へ行きました。1816年(文化13)に「続膝栗毛 八編 従木曽路善光寺道」(本山より大町)を刊行しました。同書で、成相新田・池田・保高(穂高)・有明山・小岩嶽・栗尾山観音・松尾寺薬師・宮城不動等、安曇野地域を広く紹介しました。また、同書の挿絵に、藤森善兵衛・高見甚左衛門の作品(狂歌)を添えています。
    1822年(文政5)に、「続膝栗毛 一、二編 中山道中」三冊を刊行し、1802年(享和2)の初編刊行から21年かかって「膝栗毛」シリーズが完結しました。また、満願寺を物語とした「信州栗尾山 霊応玄話」を刊行しました。このほかに、合巻・人情本・読本等の戯作から、寺子屋の教科書(往来物)まで、幅広い作家活動をして、数百冊を超える作品を書きました。十返舎一九は、日本で執筆活動だけで生活できた最初の作家ともいわれています。1831年(天保2)8月7日、亡くなりました。
    1834年(天保5)、22年間にわたって刊行された、旅をテーマにした小説「方言修業 金草鞋」シリーズ26編(後に24編に改編)が、ようやく完結をみました。

    略歴譜

    1765年(明和2)0歳駿河国府中(静岡市)に奉行所同心の子として生れる。本名は重田貞一、字(あざな)は駿陽、幼名は市九と称する。
      駿府町奉行小田切土佐守直平に仕える。
    1784年(天明4)19歳小田切土佐守直平が江戸に出るに及んで、江戸屋敷で帳簿整理等の仕事をする。
    1787年(天明7)頃 小田切土佐守直平が大坂町奉行になり、一緒に同地へ赴く。その後間もなく、武士を辞める。
    1789年(寛政1)24歳近松東南の弟子となり、近松余七の名で浄瑠璃(じょうるり)「木下陰狭間合戦」の作者の一人として名を連ねる。頼まれて、材木問屋角屋に勤める。
    1793年(寛政5)28歳作家への念やみがたく、再び江戸へ出る。地本問屋蔦屋重三郎店で職人となり、挿絵や錦絵等を手掛ける。山東京伝作の黄表紙本「初役 金烏帽子魚」に挿絵を描き、初めて一九の名が載る。
    1795年(寛政7)30歳前年に一九の名が載ったのを契機に、自画自作(筆)の「心学時計草」ほか2点の黄表紙本を出版する。
    1796年(寛政8)31歳「初登山手習方帖」のほか、自画自作黄表紙20点を刊行する。
    1801年(享和1)36歳小説(戯作者)で自立することを決意する。
    1802年(享和2)37歳初の紀行文「南総紀行旅硯石」を手始めに、「東海道中膝栗毛」初編、「江戸より箱根」を始め、この年に29点ほど刊行する。「膝栗毛」はベストセラーとなり、一躍作家としての名を決定的にする。
      この間、「東海道中膝栗毛」・「続膝栗毛」等を刊行する。
    1814年(文化11)
    7月30日
    49歳松本の出版業者高見甚左衛門の招きで、木曽路より善光寺道の現地踏査のため、板木師花垣を連れて松本を訪れる。
    1814年(文化11)
    8月11日
    49歳甚左衛門の案内で、花垣と共に安曇地方を訪れ、豊科成相新田村の藤森善兵衛(新田園長丸)宅に一泊する。翌日、栗尾満願寺に参詣し、そこに十日間程滞在し、「栗尾観音・松尾薬師・宮城不動」の三霊場を含む、北アルプス山麓を取材する。
    1814年(文化11)
    8月28日
    49歳満願寺の隠居が同道して、松本(高美屋)を出立し、糸魚川(千国)街道で大町へ行く。
    1816年(文化13)51歳「続膝栗毛 八編 従木曽路善光寺道」(本山より大町)を刊行する。同書で、成相新田・池田・保高(穂高)・有明山・小岩嶽・栗尾山観音・松尾寺薬師・宮城不動等、安曇野地域を広く紹介する。また、同書の挿絵に、藤森善兵衛・高見甚左衛門の作品(狂歌)を添える。
    1822年(文政5)57歳「続膝栗毛 一、二編 中山道中」三冊を刊行し、1802年(享和2)の初編刊行から21年かかって「膝栗毛」シリーズが完結する。
     満願寺を物語とした「信州栗尾山 霊応玄話」を刊行する。
     このほかに、合巻・人情本・読本等の戯作から、寺子屋の教科書(往来物)まで、幅広い作家活動をして、数百冊を超える作品を書く。
     十返舎一九は、日本で執筆活動だけで生活できた最初の作家ともいわれている。
    1831年(天保2)
    8月7日
    66歳亡くなる。
    1834年(天保5) 22年間にわたって刊行された、旅をテーマにした小説「方言修業 金草鞋」シリーズ26編(後に24編に改編)が、ようやく完結をみる。

    参考文献

    穂高町誌 第2巻 歴史編上・民俗編穂高町誌編纂委員会/編安曇野市立図書館
    松本市史 第2巻-[2]歴史編 2 近世松本市/出版安曇野市立図書館
    長野県歴史人物大事典郷土出版/発行安曇野市立図書館
    十返舎一九 信濃紀行集第1巻 木曽街道之記郷土出版/発行安曇野市立図書館
    やじきた道中記の十返舎一九さ・え・ら書房/発行安曇野市立図書館
    一九が町にやってきた高美書店/出版安曇野市立図書館
    講談社 日本人名大辞典講談社/出版安曇野市立図書館
    広辞苑 第6版岩波書店/出版安曇野市立図書館