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小穴 五郎|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052185 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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小穴 五郎
おあな ごろう

田沢街道を開通させる。高遠の中村元起塾に学ぶ。

生年月日 1855年(安政2)
没年月日 1918年(大正7)
関連地域 豊科(踏入)
職業・肩書 政治家
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 政治(政治)

 

経歴

豊科踏入に生れました。1870年(明治3)、諏訪の武居家に学びました。翌年、伊那高遠の中村塾に入学し、後年陸軍大将となった神尾光臣と親交を深めました。1873年(明治6)には、東京で神尾光臣と共に、当時「江戸川の聖者」といわれた中村正直(敬宇)の私塾同人社に入りました。その翌年、穂高の研成学校で漢学を講じました。1881年(明治14)、南穂高村会議員となり、南安曇郡役所書記に採用されました。1883年(明治16)に民選戸長制布告があり、南穂高戸長に選出されました。1889年(明治22)に町村制施行となり、南穂高村初代村長に選出されました。その後、郡会議員・郡参事会員・県会議員に当選し、学校・役所等の新築、道路・河川・堤防等の改修、新教育の振興等に力を注ぎました。

略歴譜

1855年(安政2) 0歳 豊科踏入の小穴新四郎の次男に生れる。
1870年(明治3)   諏訪の武居家に学ぶ。
1871年(明治4)   伊那高遠の中村塾に入学し、後年陸軍大将となった神尾光臣と親交を深める。
1873年(明治6)   東京で神尾光臣と共に、当時「江戸川の聖者」といわれた中村正直(敬宇)の私塾同人社に入る。
1874年(明治7)   穂高の研成学校で漢学を講義する。
1881年(明治14)   南穂高村会議員となる。南安曇郡役所書記に採用される。
1883年(明治16)   民選戸長制布告により、南穂高戸長に選出される。
1889年(明治22)   町村制施行に際し、南穂高村初代村長に選出される。
1891年(明治24)   郡会議員・郡参事会員に当選する。
1894年(明治27)   県会議員に当選、豊科町ほか四か村組合高等小学校の組合長となり、新教育の振興等に力を注ぐ。
1899年(明治32)   再度、郡会議員・郡参事会員になり、議長に就任する。田沢街道の開通、田沢橋の架設に尽瘁(じんすい)する。
1918年(大正7) 63歳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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