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小平 総治|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052194 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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小平 総治
こだいら そうじ

日中親善に尽力。陸軍省通訳官。

生年月日 1876年(明治9)
没年月日 1935年(昭和10)10月18日
関連地域 穂高
職業・肩書 外交官
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 政治(政治)

 

経歴

穂高に生れました。21歳の時に上京して、二松学舎に入り、三島中洲の教えを受け、後に宮島大八方に身を寄せて善隣書院に学びました。1898年(明治31)、長谷川秦に随伴して、中国の広東に1年間遊学しました。1900年(明治33)、中国で義和団事変が起り、陸軍省通訳官として中国北部に従軍しました。後に、川島浪速の薦めによって、華北の警務学童監督に命じられ、中国国民の教化啓発に当りました。1907年(明治40)には、漢口東亜製粉会社に招聘されて実業界で活躍しました。1910年(明治43)に武昌で革命が起こり、漢口領事館に勤務し、1914年(大正3)、選ばれて10年間粛親王の邸に入り、王府内外の事務に従い、子女の訓育に努めました。1932年(昭和7)に満州国独立の際、執政府内務官に任ぜられました。

略歴譜

1876年(明治9) 0歳 穂高に生れる。
  21歳 二松学舎に入り、学僕となって三島中洲の教えを受け、後に宮島大八方に身を寄せて善隣書院に学ぶ。
1898年(明治31)   長谷川秦に随伴して、支那の広東に1年間遊学する。
1900年(明治33)   中国で義和団事変が起り、陸軍省通訳官として中国北部に従軍する。華北の警務学童監督となり、中国国民の教化啓発に当る。
1907年(明治40)   漢口東亜製粉会社に招聘されて実業界で活躍する。
1909年(明治42)   武昌高等巡警学童教習となる。
1910年(明治43)   武昌で革命が起り、漢口領事館に勤務する。
1914年(大正3)   選ばれて10年間粛親王の邸に入り、王府内外の事務に従い、子女の訓育に努める。
1926年(大正15)   満鉄会社嘱託として中国北部公所で情報事務に携わる。
1932年(昭和7)   満州国独立の際、溥儀執政に召され、執政府内務官に任ぜられる。信任を得、建国功労賞を受賞。
    満州国政治機構の改変に際し、創設国立博物館主事に転じ、新京から奉天に移り3年間務める。
1935年(昭和10)10月18日   病気のため帰郷し、亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館

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