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小林 章|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052197 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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小林 章
こばやし あきら

彫刻家。石井鶴三の門人。院展に連続出品し、日本美術院院友となり、日展招待という確固たる地位を築き、日本の彫刻界に貢献する。

生年月日 1903年(明治36)2月12日
没年月日 1977年(昭和52)3月13日
関連地域 穂高(塚原。豊科に転居。)
職業・肩書 彫刻家
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(芸術)

 

経歴

穂高塚原に生れました。画家小林邦の兄に当ります。松本で歯科技工士を経験し、この頃から石膏像の制作に取り組みました。荻原碌山の作品と中村不折・柳敬助との出会いを機に、彫刻家への意を決したといわれています。上京して川端画学校で素描を学び、彫刻の道を歩みました。師の石井鶴三の影響を受けて、内面に厳しさを秘めた構築性の強い作風となりました。エジプトの古彫刻に心をひかれ、写実ながらプリミチィブな内面性の強い作風となりました。第14回院展以降、45回院展まで連続出品を続け、日本美術院院友となり、日展招待という確固たる地位を築きました。また、日府展・太子展でも活躍したほか、日府展理事として参画し、日本の彫刻界に貢献しました。1977年(昭和52)に亡くなりました。

略歴譜

1903年(明治36)2月12日 0歳 穂高塚原に生れる。洋画家小林邦の兄に当る。
  18歳 松本で歯科技工士を経験し、ゲーテの胸像の試作を石膏像の制作で取組む。
    荻原碌山の作品と中村不折・柳敬助との出会いを機に、彫刻家への意を決す。
1922年(大正11) 19歳 上京して川端画学校で素描を学び、彫刻の道を歩む。
    師の石井鶴三の影響を受けて、内面に厳しさを秘めた構築性の強い作風となる。
1927年(昭和2)   第14回院展の「立つ女」以降、45回院展まで連続出品を続ける。
1941年(昭和16)   松本市で、「小林章素描彫刻展覧会」を開催する。
1942年(昭和17)   第30回院展に、「誕生」・「袖を持てる少女」を出品、受賞したことで、次回から無鑑査となる。
1950年(昭和25)   豊科に転居する。 
1969年(昭和44)   長野県彫刻工芸会を結成し、会長を務める。
1977年(昭和52) 75歳 亡くなる。
1979年(昭和54)3月13日   彫刻56点、絵画9点が、豊科町郷土博物館(現安曇野市郷土博物館)に寄贈される。

参考文献

穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館
安曇野の美術 丸山楽雲/編 安曇野市立図書館
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 総合遺作展実行委員会/編  

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