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昭和・平成時代/太平洋戦争後から現在 安曇野出身の学者たち|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051980 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

安曇野の土地

先人たちの残した偉大な功績は今も安曇野に脈々と息づいている。

豊かな感性と思想を育んだ安曇野の風土

太平洋戦争で身も精神も痩せ細った学生たちに大きな感化を与えた学者たちがいました。
信州大学文理学部の名物教師・望月市恵教授もその一人。「モッちゃん」と学生たちに親しげによばれていました。ヒマラヤ杉の巨木におおわれた木造校舎の、ひんやりと薄暗い教室に「モッちゃん」のドイツ語の講義の声が流れていました。「・・・ですよね」。細い声ですが、おっとりと語る紳士的な口調が、学生たちの心をなごませ、深遠な文化の園へと誘っていきます。感化をうけた学生には、小説家になった辻邦生、北杜夫、映画監督になった熊井啓がおります。

熊井にとり「モッちゃん」は、映画監督への道を決断させてくれた恩人でした。進路で悩んだ彼は、穂高の糸魚川街道沿いの師の自宅を訪れます。師は5年間教え子を見てきた感想を率直に述べ「熊井君は映画監督になるしか能はありません」と言い切ります。熊井は、のち自著に「先生は私に、自分の道を一筋に進む勇気を与えてくださった。真の教育者とは、このように教え子の内に眠る可能性を引き出してくれる存在であろう」と書いています。望月も自著に、このときの事を上げ「熊井君が会社員になっていても、ろくな会社員にはなれなかっただろう」と書いています。

三郷出身の哲学者・務台理作は、資本主義のゆきづまった戦後のあり方として、従来のヨーロッパ型ではない「第三のヒューマニズム」を唱えました。そして信州文化を、「高地農民型」のものと規定し、「藤村にも、赤彦にも、一茶にも、碌山にも、それがある」と述べ、「伝統として守るだけでなく、若返らせて、たくましいものに育て上げよ」と訴えております。

豊科田沢出身の早稲田大学教授藤原保信。彼は、いま売れっ子学者・姜尚中(カン サンジュン)の恩師です。南安曇農業高校を卒業、昼は紡績工場で働き、夜は早稲田大学で学び、母校の教壇に立ち、姜氏を教えました。
姜氏は「我が心の師」の藤原教授が、未来社会への三つの提言をしているのに、尊敬の念を持っています。
その一つは、環境政治哲学。大量生産・大量消費の人間生活には限界がくる。自然の生態系を守り、環境適合型の社会をデザインすべき。第二は、自由な経済活動のもとで、人間の欲望が肥大化するにまかせている政治のあり方そのものを変えるべき。政治が経済の奴隷になるな。第三は、常に強者が弱者をしのいで富を独占するという現実社会のありように対しての批判。「この提言こそ、のちに続く私たちの大切な共有財産」と姜氏は強調しています。

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