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昭和時代/昭和初期 清沢洌と上原良司|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051981 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

北穂高と有明の村境にある穂高川にかかる乳房橋

清沢と上原の育った北穂高と有明の村境にある穂高川にかかる乳房橋。
上原はここで最後の別れで「さようなら」を三度大声で告げた。

つぶされた自由主義を戦後につなぐ

自由主義は日本が戦争で敗れてアメリカから初めて入ったと思っている人が少なくありません。
ところがすでに明治の時代、国民の間から自由民権運動がおこっていたのです。自由主義は議会や憲法、政党の歩みと共に発達して、デモクラシーが盛り上がった大正から昭和のはじめにかけては、政党が交代して政治を行うところまで到達していました。
それが「自由主義は時代おくれだ」とか「悪だ」とか云われつぶされてしまったのが、昭和10年代でした。

5.15事件や2.26事件が起き、暴力で反対する者を消してゆく風潮が高まっていきました。
戦争を進める軍部を推す勢力と、共産主義革命を考える勢力と、あくまで自由主義を守るべきという勢力とが三つ巴になって激しく論じ合いました。「文藝春秋」や「中央公論」などが論争を掲載し、国民はそれを読んで日本のあるべき進路を考えたのでした。
このとき自由主義擁護の旗手として論陣をはったのが、穂高出身の清沢洌でした。彼は「私たちは先輩の努力のおかげで言論の自由という良いものを現在持っています。戦争や革命で幸福な社会を作るといいますが、それで現在より良くなるという確実性があるわけではありません」と述べました。そして、たとえ政策として社会主義をとろうとしても、心構えとしての自由主義だけは、先人たちが築きあげた貴重な財産であるから捨ててはならないと主張しました。

結局、彼の主張は受け入れられず日本は戦争への道を突き進みますが、「やはり自由主義が大事」と清沢の主張を確認したのが、沖縄の海に散った有明出身の上原良司でした。彼は出撃前夜、最後の遺書「所感」を国民に向けて書きます。
「自由の勝利は明白なことだと思います。人間の本性たる自由主義を滅ぼすことは絶対にできなく、…最後には必ず勝つ」
共に敗戦を目前にしてこの世を去った清沢と上原は乳房橋をはさんだ隣り村で育ちましたが、彼らの志は、現在世界のあるべき原理として生き続けております。

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