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昭和初期/女性たちの安曇野|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051983 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

安曇野わさび田湧水群

小穴寿枝の生家近くにある日本名水百選の一つ「安曇野わさび田湧水群」

暗い世相のなか、3人の女性が貫いた3様の奇跡

昭和の始めを色で例えれば、自由や自治圧迫の嵐吹きまくり、行く先に光の見えない暗い灰色でしょう。その中でも、みずみずしい感性と素晴らしい才能を発揮し、凛(りん)と生き抜いた3人の女性を紹介しましょう。
最初は美しき女流歌人、小穴寿枝(豊科出身)です。1895年(明治28)に踏入の大地主の家に生まれましたが16歳で結核におかされ、入退院を繰り返す中で短歌に出会います。1920年(大正9)に歌人・太田水穂を招いて松本で歌会が開かれた折、病み上がりの身を押し“紅一点”出席して水穂に「はるばるよく来た」とねぎらわれたことも、大きな力となりました。
結核のために婚期をのがし、心許した上田の男性と長い交際の末、周囲の反対を押して結婚したのが30歳。やっと手にした女の喜びもつかの間、病弱であったために1年足らずで嫁ぎ先を追い出され安曇野に戻ります。世間は許さずとも、2人は互いに思いを寄せ合い、心は深く思いを重ねていました。
男性のいない大地主の女主(あるじ)として小作人とのはん雑な争いごとを処理しながら、数々の名歌を発表し続けました。

水水水 生きの玉水甘き水 寒の氷をくだきたる水

1944年(昭和19)、寿枝49歳の歌が絶作となりました。
2人目は、戦前・戦後と一貫して婦人解放運動の先頭に立って歩んだ、加藤寿々子(堀金出身)です。1898年(明治31)に生まれ、26歳で翻訳家でもあった加藤朝鳥と結婚。夫亡き後は華道教授として活躍し、1940年(昭和15)からは市川房枝らが発行する「女性展望」の編集員となります。
婦人運動への情熱が高まり続ける中、1945年(昭和20)に「新日本婦人同盟」が結成されると翌年には松本支部長となり、市川房枝を招く講演会を7回開催。信州の女性に大きな勇気を与えました。
3人目は1921年(大正10)に穂高(柏原)の農家に生まれた丸山富子です。独学で詩を学び、信濃毎日新聞に投稿しています。政府や警察の思想検閲が厳しくなる中、勇敢にも兄の戦死を嘆く反戦散文詩「散りぬるを」を投稿。この詩には家族愛、戦争否定、正義感、歴史感があふれていて、いまも読む人の心をふるわせます。
明治の終わりに、弟の戦争出征を嘆いて「君 死にたまふことなかれ…」と発表し、一大センセーションを巻き起こした与謝野晶子がいましたが、安曇野の丸山富子もまた、負けぬくらいの麗しい心根を持った女性でした。病のために21年間の短い人生を閉じます。

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