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松沢 求策|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052202 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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松沢 求策
まつざわ きゅうさく

自由民権運動のリーダー。

生年月日 1855年(安政2)
没年月日 1887年(明治20)6月25日
関連地域 穂高(等々力町)
職業・肩書 自由民権運動のリーダー
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 政治(政治)

 

経歴

穂高等々力町に生れました。9歳にして、近くの高島章貞の私塾「星園塾」に入り、11歳で四書五経を読了し、桂園派の和歌を学び、15歳ころ上京して、国学者野田千頼に、国学と和歌を学びました。20歳の時、学校世話役と拾ヶ堰の堰守を委任されました。その年、武居用拙塾へ入塾し、22歳の時、東京の講法学社で、フランス民法・フランス政法書等を学びました。1878年(明治11)、演説会に登壇し、松本新聞にたびたび投書すると共に、坂崎斌が進める民権運動に協力して猶興義塾を開きました。「民権鑑嘉助面影」の執筆に取り掛かり、翌年、松本常盤座で上演しました。その年、松本新聞編集長、月桂社の編集長に就任しました。1880年(明治13)2月1日、奨匡社設立準備会が開かれ、翌々日、大阪国会期成同盟大会へ参加し、永田一二と共に、国会開設願望書起草委員に選ばれました。11月17日から27日まで、大日本国会期成有志公会が開かれ、11月17日に政党結成の提案を行いました。この大会で期成同盟常務委員に選ばれ、自由党の事務を兼ねて、全国的民権運動のために活躍しました。1881年(明治14)、東洋自由新聞社長西園寺公望退社について檄文を書き配布したために、東京裁判所で判決を受け、懲役70日に処され、石川島の牢獄に入獄しました。1882年(明治15)、八丈島の開発に尽力しました。1883年(明治16)、 長野県会議員に当選し、翌年、県立中学校の設立案を提案し、本会議で可決されました。1887年(明治20)、結核のため病床に伏しました。代言人試験問題事件に巻き込まれ、懲役1年の判決を受け、石川島牢獄で服役中、32歳で亡くなりました。

略歴譜

1855年(安政2)   0歳 穂高等々力町に生れる。
1864年(元治1) 9歳 近くの私塾「星園塾」で、高島章貞の指導を受ける。
1866年(慶応2)  11歳 四書五経を読了し、傍ら桂園派の和歌を学ぶ。
1867年(慶応3)  12歳 近くの商店「大和屋」の丁稚となり、小川為一郎の世話になる。
1870年(明治3)  15歳 この頃、国学者野田千頼を追い上京、国学・和歌を学ぶ。翌年帰郷する。
1875年(明治8)   20歳 3月に学校世話役と拾ヶ堰の堰守を委任される。武居用拙塾へ入塾する。
1876年(明治9)   21歳 7月、穂高商会事業を進めるために、小川為一郎と共に東京に着く。
1877年(明治10)  22歳 2月、講法学社に入塾、箕作麟詳からフランス民法、松田正久からフランス政法書等を学ぶ。同月、小川為一郎から委任を受け、穂高商会事業の後始末に尽力して成功する。9月、帰郷する。
1878年(明治11)   23歳 1月、豊科学校での演説会に、武居用拙・藤森寿平と共に登壇する。6月、坂崎斌が進める民権運動に協力し、猶興義塾を開く。松本新聞に「協議会規則」等の投書をする。以後、翌12年にかけて、「民権鑑嘉助面影」の執筆をする。
1879年(明治12)    24歳 2月中旬、松本常盤座で、自作の「民権鑑嘉助面影」と「常陸帯縷の糸筋」を上演する。7月に松本新聞編集長、10月に月桂社の編集長に就任し、教師のエネルギーを軸とした民権運動を展開する。11月20日、松沢宅で市川量造・三上忠貞・上条蟻司と共に、国会開設のための結社設立を決定する。 ※人名の漢字は本人の使用したものを尊重しましたが、やむをえず「旧字体」を「新字体」に変えました。
1880年(明治13)   25歳 2月1日、浅間桐の湯で、奨匡社設立準備会開かれる。2月3日、大阪国会期成同盟大会へ参加、永田一二と共に、国会開設願望書起草委員に選ばれる。4月11日、松本青竜寺で、奨匡社結成大会が開かれる。5月23日、上条蟻司と共に上京し、連日、太政官や元老院の間を往復し、激しい運動を展開する。大日本国会期成有志公会が開かれ、11月17日、政党結成の提案を行う。期成同盟常務委員に選ばれ、自由党の事務も兼ねて、全国的民権運動のために活躍する。
1881年(明治14)   26歳 1月30日、神奈川県原町田で開かれた武相懇談会に、肥塚竜等、民権ジャーナリストたちと一緒に参加する。3月18日、東洋自由新聞創刊、「民権鑑嘉助面影」を連載する。4月10日、西園寺社長退社について檄文を書き配布する。5月16日、そのために東京裁判所で判決を受け、懲役70日に処され、石川島の牢獄に入獄する。11月1日、下田港を出発、八丈島に向う。
1882年(明治15)   27歳 6月3日、南海開島会社主意書を東京府に提出する。許可を得て、八丈島の開発に尽力、三井物産、地役人長戸路十兵衛と島民の支持をめぐって争う。
1883年(明治16)   28歳 3月18日、後藤新兵衛と同盟し、開島会社の資金補給を仰ぐ。11月26日、開島会社島民の支持を失い、倒産する。12月、長野県会議員に当選する。
1884年(明治17)   29歳 3月6日、県立中学校の設立案を提案し、28日、本会議で可決される。
1885年(明治18)   30歳 夏、代言人試験問題漏洩事件がおこる。
1886年(明治19)   31歳 2月2日、浅間商店と称する石炭委託販売店を設ける契約を、伊勢庸三と結ぶ。
1887年(明治20)  32歳 結核のため病床に伏す。6月25日、代言人試験問題事件に巻き込まれ、懲役1年の判決を受け、石川島牢獄で服役中、亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
「鋤鍬の民権」松沢求策の生涯       中島博昭/著 安曇野市立図書館

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