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上嶋 貞巖|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

上嶋 貞巖の写真

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上嶋 貞巖
かみじま ていがん

小倉の浄心寺再興。

生年月日1852年(嘉永5)
没年月日1901年(明治34)
関連地域三郷(北小倉。松本市梓川出身。)
職業・肩書住職
活躍年明治時代
ゆかりの分野文化(宗教)

 

経歴

1852年(嘉永5)、梓川下角影に生れました。幼い時から浄心寺に弟子入りし、小笠原貞雄和尚について仏道に励みました。1872年(明治5)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により小笠原貞雄和尚は、開基の小笠原貞政の位牌を持って岐阜の高山へ逃れ、後に山梨県の住職に迎えられました。そこで貞巖は、主な仏像を上嶋家の土蔵に預け、自らは内仏本尊を背負って四賀村の浄雲寺まで行って預け、穴沢部落の中の堂に住んで寺子屋を開き、近隣の子供を集めて教えました。1885年(明治18)、迎えられて浄心寺の再興の仕事に取り掛かりました。旧檀家232名を糾合し、旧寺の南方宮の久保に敷地900坪を確保し、本堂は本山や県庁へも請願したことにより、氷室の福聚院の建物を購入し、庫裡・客殿の建設を急ぎました。寺の基本財産として、山林約2町歩を確保し、旧檀家が復帰したほか松本方面からの檀家もあり、その数800を数えました。

略歴譜

1852年(嘉永5)0歳梓川下角影に生れる。
  幼い時から浄心寺に弟子入りし、小笠原貞雄和尚について仏道に励む。
1872年(明治5) 廃仏毀釈により、小笠原貞雄和尚は、高山へ行った後に山梨県の住職に迎えられる。
  仏像を上嶋家の土蔵や四賀の浄雲寺に預け、穴沢部落の中の堂に住んで寺子屋を開き、近隣の子供を集めて教える。
  和田の無極寺吉水豊山住職について修業する。
1885年(明治18) 迎えられて浄心寺の再興の仕事に取り掛かり、近くの青木堂に身を寄せる。
  旧寺の南方宮の久保の敷地900坪と本堂用の氷室の福聚院の建物を購入し、庫裡・客殿の建設を急ぐ。
  寺の基本財産として、山林約2町歩を確保し、本山や県庁へも請願し、旧檀家が復帰するようになる。
  説教・読経等が好評で、梓川や松本方面からも檀家となり、その数800を数える。
1901年(明治34) 亡くなる。

参考文献

三郷村誌1三郷村誌編纂会/編安曇野市立図書館