植原 悦二郎|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052207 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
植原 悦二郎
うえはら えつじろう
天皇主権の明治憲法下で、国民主権の民主主義を唱えた自治功労者。衆議院議員を経て、太平洋戦争後は国務大臣になる。
生年月日 | 1877年(明治10) |
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没年月日 | 1962年(昭和37)12月2日 |
関連地域 | 三郷(中萱) |
職業・肩書 | 自治功労者 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 政治(政治) |
経歴
三郷中萱に生れました。1899年(明治32)に渡米し、ワシントン大学卒業後、ロンドン大学で4年間学び、ドクトルオブサイエンスの学位を得て帰国し、高校・大学で教鞭を執りました。衆議院議員となり、政界に入り、デモクラシーの顕現と議会政治の建設に精魂を打ち込みました。1917年(大正6)に衆議院議員在職中、国務大臣・内務大臣等を歴任し、1949年(昭和24)に予算委員長、1955年(昭和30)に外務委員長となり、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席しました。翌年には英国上下両院議長招待に対し、衆参両院議員団長として訪英しました。その後、日ソ共同宣言等の特別委員長・国連第11回総会日本政府顧問となりました。1961年(昭和36)7から8月には、台湾・沖縄を視察、しょう総統と会談し、12月には、齢84歳で、英領フィジー島・濠州ニュージーランドを歴訪しました。
※人名の漢字は本人の使用したものを尊重しましたが、やむをえず「漢字」を「ひらがな」に変えたものもあります。
略歴譜
1877年(明治10) | 0歳 | 三郷中萱に生れる。 |
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ワシントン大学卒業後、ロンドン大学で4年間研さんする。 | ||
ドクトルオブサイエンスの学位を得て帰国する。 | ||
1917年(大正6) | 衆議院議員となり、政界に入り、デモクラシーの顕現と議会政治の建設に精魂を打ち込む。 | |
衆議院議員在職中、国務大臣・内務大臣等を歴任する。 | ||
1949年(昭和24) | 予算委員長となる。 | |
1955年(昭和30) | 外務委員長となる。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席する。 | |
1956年(昭和31) | 英国上下両院議長招待に対し、衆参両院議員団長として訪英する。 | |
日ソ共同宣言等特別委員長・国連第11回総会日本政府顧問となる。 | ||
1961年(昭和36)7月から8月 | 台湾・沖縄を視察、しょう総統と会談する。 | |
1961年(昭和36)12月 | 84歳 | 英領フィジー島・濠州ニュージーランドを歴訪する。 |
1962年(昭和37)12月2日 | 85歳 | 病気のため亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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