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西沢 明花|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052214 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

西沢 明花の写真

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西沢 明花
にしざわ めいか

山岳画家。研成義塾に学び、碌山の影響を受けて画家となった。

生年月日 1883年(明治16)
没年月日 1939年(昭和14)
関連地域 穂高(矢原)
職業・肩書 日本画家
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(芸術)

 

経歴

穂高矢原に生れ、本名は弥平といいました。研成義塾を卒業後は、キリスト教徒として絵画に力を入れました。当時、帰国した荻原碌山の感化を受けて、画家になることを決意しました。以降は、上京して帝展委員の広瀬東畝に入門し、日本画を学びました。明花は、特にアルプスを愛し、山の神秘なまでに深遠で偉大な姿の表現に努め、上高地をテーマに文展に出品しました。晩年は、本田日生師と親交を深め、法華経に心の安らぎを求め、師との親交もあって、穂高有明富田の日蓮宗道場妙教寺の合天井絵を作成しました。1939年(昭和14)7月8日、燕岳頂上で高山病にかかり、亡くなりました。

略歴譜

1883年(明治16) 0歳 穂高矢原に生れる。本名は弥平という。
    研成義塾に通う。
    卒業後は、敬虔なるキリスト教徒として、画業に精進する。
    荻原碌山の感化を受け、画家を志す。
    上京して帝展委員の広瀬東畝に入門し、日本画を学ぶ。
    アルプスを愛し、山の神秘なまでに深遠で、偉大な姿の表現に努め、上高地をテーマに文展に出品する。
    晩年は、本田日生師と親交を深め、法華経に心の安らぎを求める。
    穂高有明富田の日蓮宗道場妙教寺の合天井絵を作成する。
1939年(昭和14)   燕岳頂上で高山病にかかり、亡くなる。
    中村不折の筆による記念碑が建てられる。

参考文献

穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
安曇野の美術 丸山楽雲/編 安曇野市立図書館
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 総合遺作展実行委員会/編  

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