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青柳 栄司|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052217 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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青柳 栄司
あおやぎ えいじ

「我が国電気工学界の泰斗」と言われた工学博士。家庭生活の電気化に大きく貢献。拾ヶ堰の梓川横断に、現在のサイフォン方式を提案し、実現させた。

生年月日 1873年(明治6)
没年月日 1944年(昭和19)8月12日
関連地域 堀金(南原)
職業・肩書 工学博士
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 文化(学術思想)

 

経歴

堀金南原に生れました。1901年(明治34)、ドイツでの2年間の留学から帰国後、京都帝国大学(現京都大学)理工科教授となりました。1913年(大正2)1月に、京都帝国大学電気工学教室の「電気評論」を創刊しました。1916年(大正5)には、教化振興会の創設、青柳研究所(応用科学研究所の前身)設立をしました。その後、文部省社会教育講師、学術研究会議員、電気工学講習所校長を歴任し、1932年(昭和7)、京都発明協会会長、大阪工業大学(現大阪大学)教授となりました。大阪帝国大学(現大阪大学)の創設に尽力して、大阪帝国大学工学部教授となりました。また、拾ヶ堰梓川横断伏越工事のサイフォン設計について尽力しました。昭和初年、代議士に立候補し、植原悦二郎候補と争いました。「政治は植原、電気は青柳」と言われました。

略歴譜

1873年(明治6) 0歳 堀金南原に生れる。
1898年(明治31)   東京帝国大学(現東京大学)電気工学科を卒業する。京都帝国大学電気工学科助教授と第三高等学校講師になる。
1899年(明治32)   電気工学研究のため、ドイツに2年間留学する。
1901年(明治34)   帰国後、京都帝国大学理工科教授となる。
1912年(明治45)   京都帝国大学電気工学教室主任となる。
1913年(大正2)1月   京都帝国大学電気工学教室の「電気評論」を創刊する。
1916年(大正5)   この年の4月から12月にかけて、欧米に出張、視察する。教化振興会を創設し、青柳研究所(応用科学研究所の前身)を設立する。
1920年(大正9)   文部省社会教育講師、学術研究会議員となる。中国に出張する。
1921年(大正10)頃   北安曇郡木崎湖畔に学者村を設け、講師招聘の便を計る。
1931年(昭和6)   電気工学講習所校長となる。(同所は1938年(昭和13)、立命館大学に移譲、同校の電気工学教室となる。)
1932年(昭和7)   京都発明協会会長、大阪工業大学教授となる。大阪帝国大学(大阪大学)の創設に尽力する。大阪帝国大学工学部教授となる。
1935年(昭和10)   正三位勲一等瑞宝章を賜る。
1944年(昭和19)8月12日 71歳 病気のため亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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