ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

青柳 利平|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052221 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

青柳 利平の写真

拡大表示

青柳 利平
あおやぎ としひら

烏川村農地委員会長として、農地改革を誠実公正に推進処理する。公民分館の誕生、土地改良事業、米飯給食の実現等に大きく貢献する。

生年月日 1906年(明治39)
没年月日 1970年(昭和45)
関連地域 堀金(下堀)
職業・肩書 自治功労者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

堀金下堀で生れました。南安曇農学校(現南安曇農業高校)を卒業して家業を継ぎ、営農に精励する傍ら、推されて烏川青年会長に就任し、会員相互の親睦と研修に努めました。1945年(昭和20)、烏川村民生委員に委嘱され、戦後の要保護家庭の救済に尽力しました。その後、烏川村初代農地委員に選任され、烏川村農地委員会長に就任して、戦後の農地改革という難事業を誠実公正に推進処理して信望を集めました。1951年(昭和26)には、烏川村初代農業委員に選ばれ、農家経済の向上にも貢献しました。1955年(昭和30)に堀金村が発足した折、講師として分館の必要性を説いて回り、1957年(昭和32)に公民館長となり、社会教育の推進に努めました。また、第2拾ヶ堰期成同盟推進特別委員として、土地改良の大事業に当り、農業の発展に努めたほか、1969年(昭和44)には教育委員に選任され、米飯給食の実現等村の教育行政に大きく貢献しました。1970年(昭和45)、64歳で亡くなりました。

略歴譜

1906年(明治39) 0歳 堀金下堀に生れる。
    南安曇農学校(現南安曇農業高校)を卒業して家業を継ぎ、営農に精励する傍ら、推されて烏川青年会長に就任し、会員相互の親睦と研修に努める。
1945年(昭和20)   烏川村民生委員に委嘱され、戦後の要保護家庭の救済に尽力する。
1946年(昭和21)   烏川村初代農地委員に選任される。
1949年(昭和24)   烏川村農地委員会長に就任し、戦後の農地改革という難事業を誠実公正に推進処理して信望を集める。
1951年(昭和26)   烏川村初代農業委員に選ばれ、農家経済の向上に貢献する。
1955年(昭和30)   堀金村が発足後すぐに、講師として分館の必要性を説いてまわる。
1955年(昭和30)から
1956年(昭和31)
  村内9地区に分館が誕生し、今日の分館活動の基礎が築かれる。
1957年(昭和32)   堀金村公民館館長となり、社会教育の推進に努め、婦人教育・家庭教育・文化の向上に力を尽す。
  農村人として農業の将来について常に考え、第2拾ヶ堰期成同盟推進特別委員として、土地改良の大事業に当る。
1969年(昭和44)10月   教育委員に選任され、米飯給食の実現等村の教育行政に大きく貢献する。
1970年(昭和45)9月 64歳 亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

皆さまのご意見を
お聞かせください

お求めの情報が充分掲載されてましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現は分りやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?