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石井 佐兵衛|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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石井 佐兵衛
いしい さひょうえ

建築・彫刻を習い、立川和四郎の高弟となる。満願寺の手洗閣の彫刻等が有名。その足跡は近畿・中国・関東に及ぶ。

生年月日1813年(文化10)
没年月日1870年(明治3)10月29日
関連地域明科(潮)
職業・肩書彫刻家
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野文化(芸術)

 

経歴

明科潮に生れました。20歳前後の時に、松本宮村町の工匠伊藤吾助康信の門人、立石清三郎朝信の門下となり、建築や彫刻の技量を磨き上達しました。佐兵衛が書いた設計図や図案には、「安次郎安忠」・「康二郎康忠」・「佐兵衛」の三種の名前を使用しました。その後、諏訪へ行き、第三代立川和四郎の門弟となり、立川派はもちろん、大隅流、他の流等も研究して、和四郎の高弟となりました。その技は、師と見間違える程に上達し、師に従って諸国を歴遊し、近畿・中国に及びました。師と共に東照宮の修理にも従事したといわれましたが、1870年(明治3)10月29日に、中禅寺湖畔で病気のため亡くなりました。豊科吉野神社の制札建築彫刻・穂高牧の満願寺の手洗閣の彫刻・下生野五社大明神の拝殿・会田本町の舞台・雲龍寺大黒天の彫刻・天保時代の秀れた精密な設計図や図案が約100枚等、制作した彫刻や書いた設計図が多く残っています。

略歴譜

1813年(文化10)0歳明科潮に生れる。
 20歳頃松本宮村町の工匠伊藤吾助康信の門人、立石清三郎朝信の門下となり建築や彫刻の技量を磨き上達する。
天保年間 佐兵衛が書いた設計図や図案には、「安次郎安忠」・「康二郎康忠」・「佐兵衛」の三種の名前を使用する。
  諏訪へ行き、第三代立川和四郎の門弟となり、立川派はもちろん、大隅流、他の流等も研究して、和四郎の高弟となる。
  技は、師と見間違える程に上達し、師に従って諸国を歴遊し、近畿・中国に及んだ。師と共に東照宮の修理にも従事したといわれる。
1870年(明治3)10月29日 中禅寺湖畔で病気のため亡くなる。

参考文献

東筑摩郡・松本市・塩尻市誌別篇人名                                                                        東筑摩郡・松本市・塩尻市/編安曇野市立図書館
明科町史明科町史編纂会/編安曇野市立図書館

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