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浅井 五郎左衛門|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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浅井 五郎左衛門
あさい ごろうざえもん

倉田の芝切(しばきり)・倉田堰の開削。

生年月日不詳
没年月日1752年(宝暦2)
関連地域堀金(倉田)
職業・肩書組頭
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野経済(産業)

 

経歴

浅井家は、松本市正行寺の佐々木氏に従って、近江国から信州へ移り住んだと伝えられています。倉田へ移住した時は、同地の開発された1699年(元禄12)でした。1744年(寛保4)に、父五郎兵衛が亡くなりました。
倉田は水利権がなく、畑地で粟を作っており、組頭を勤めていたため、浅井家は「粟お頭」といわれていました。1752年(宝暦2)に亡くなりました。
浅井五郎左衛門の子が2代目の五郎左衛門を名乗り、志を継ぎ、開墾が進みました。倉田堰の開削を実現し、田も開田されました。「長尾組村々枝郷小名所御改ニ付書上帳」(山口裕氏文書)によると、1803年(享和3)開発の新切(しんきり)は55戸となりました。

略歴譜

生年不詳 生れる。
  浅井家は、松本市正行寺の佐々木氏に従って、近江国から信州へ移り住んだと伝えられる。
  倉田へ移住した時は、同地の開発された1699年(元禄12)であった。
1744年(寛保4) 父五郎兵衛が亡くなる。
  父の跡を継ぎ、更に開墾を行う。
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1752年(宝暦2) 亡くなる。
  子が2代目の五郎左衛門を名乗り、志を継ぎ、開墾が進む。
  「長尾組村々枝郷小名所御改ニ付書上帳」(山口裕氏文書)によると、1803年(享和3)開発の新切は55戸となる。
  1724年(享保9)の『信府統記』によると、下堀金村新切(扇町)は25石2斗8升5合(23町歩)となることから、扇町並みの下畑2斗、下々畑1斗とすると、上堀金村新切(無役高・倉田分)の31石4斗5合は28町歩となる。これを55戸で割ると、1戸当り5反歩位となる。

参考文献

堀金村誌堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編安曇野市立図書館
宮下一男氏所蔵資料