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浅井 斧右衛門|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052227 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

浅井 斧右衛門
あさい おのうえもん

倉田の芝切(しばきり)・倉田堰の開削。

生年月日 不詳
没年月日 1827年(文政10)
関連地域 堀金(倉田)
職業・肩書 組頭
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

1810年(文化7)8月15日、村民38名を役宅に集めて、島々谷へ流れていた冷沢を掘廻して小野沢に落し、烏川の水利権を得て倉田堰を開削しようと相談しました。この趣旨を上堀金の庄屋弥三右衛門へ願い出て、願書を藩に提出しました。1811年(文化8)2月8日に藩の聞き届けがあり、同年4月17日には、藩役人による検分が行われました。この検分に際して、村は総出で準備を行いました。6月21日に普請が始まり、7月5日まで延べ195人が出動して掘廻しを完成させました。斧右衛門は、開削のための諸材料・費用・人手の手配等を行いました。倉田堰の開削によって、1818年(文政1)に田が3町5反5畝歩開田されました。この後、拾ヶ堰の開削と共に、上堀金堰の余水によって一層開田が進められました。

略歴譜

生年不詳 0歳 生れる。
1752年(宝暦2)   父五郎左衛門が亡くなる。
1810年(文化7)8月15日   村民38名を集め、島々谷へ流れる冷沢を掘廻して小野沢に落し、烏川の水利権を得て倉田堰を開削する相談を行う。
    この趣旨を上堀金の庄屋弥三右衛門へ願い出て、願書を藩に提出する。
1811年(文化8)2月1日   村民は烏川で水ごりをし、倉田の氏神に千度参りを行う。
1811年(文化8)2月8日   藩の聞き届けがある。
1811年(文化8)4月17日   藩役人による検分が行われる。検分に際して、村は総出で笹刈りをして、道を造り藩役人の宿泊用の風呂桶を運搬等している。
1811年(文化8)6月21日から
7月5日
  普請が始まり、7月5日まで延べ195人が出動して掘廻しを完成させる。斧右衛門は、開削のための諸材料・費用・人手の手配等を行う。
1818年(文政1)   田が3町5反5畝歩開田される。
    この後、拾ヶ堰の開削と共に、上堀金堰の余水によって一層開田が進められている。
1827年(文政10)   亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館
宮下一男氏所蔵資料    

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