竹内 泰信|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052065 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
竹内 泰信
たけうち やすのぶ
「松本新聞」の主筆となり、松沢求策等と共に国会開設運動をする。また、興産社の創設、南安産の秋蚕種の全国への紹介等産業振興に努める。
生年月日 | 1843年(天保14) |
---|---|
没年月日 | 1897年(明治30)1月18日 |
関連地域 | 豊科(飯田) |
職業・肩書 | 政治運動家 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
豊科飯田に生れました。1851年(嘉永4)に横山義彦に入門し、和漢の学・和歌・算法を修めました。その後、江戸に出て2年余の苦学を終え、1870年(明治3)に帰郷、皇学塾を開きました。1872年(明治5)には神職となり、豊科飯田の諏訪社の祠掌(ししょう)、穂高神社の社司を務めました。1874年(明治7)から6年間、小学校の教師を勤めるかたわら、「松本新聞」に寄稿し、その才能を認められて主筆となり、穂高の松沢求策等と共に国会開設を促しました。また1879年(明治12)、豊科に興産社(農芸試験場)を創設し、種苗を試作しました。1883年(明治16)に下高井郡書記となり、1888年(明治21)には、南安曇郡選出の県会議員となり、課税の公平等県政の向上発展に貢献しました。晩年は、東京で蚕業用達組合本部を設け、南安曇郡産の秋蚕種を全国に紹介しました。1897年(明治30)1月、54歳で亡くなりました。
略歴譜
1843年(天保14) | 0歳 | 豊科飯田に生れる。 |
---|---|---|
1851年(嘉永4) | 横山義彦に入門し、和漢の学・和歌・算法を修める。 | |
1870年(明治3) | 江戸での2年余の苦学を終え、帰郷して皇学塾を開く。 | |
1872年(明治5) | 神職となり、豊科飯田の諏訪社の祠掌、穂高神社の社司を務める。 | |
1874年(明治7) | 小学校の教師を6年間勤めるかたわら、「松本新聞」に寄稿し、その才能を認められて主筆となり、穂高の松沢求策等と共に国会開設を促す。 | |
1879年(明治12) | 豊科に興産社(農芸試験場)を創設し、種苗を試作する。 | |
1883年(明治16) | 事業から転じて、下高井郡書記となる。 | |
1888年(明治21) | 南安曇郡選出の県会議員となり、課税の公平等県政の向上発展に貢献する。 | |
晩年、議員を辞職し、東京で蚕業用達組合本部を設け、南安曇郡産の秋蚕種を広く全国に紹介する。 | ||
1897年(明治30)1月18日 | 54歳 | 亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
---|---|---|
豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |