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中沢 染江|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052063 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

中沢 染江
なかざわ そめえ

高橋白山を招き、協和学校設立に尽力する。コレラ流行の際、自宅を病室や医師の宿に当て、幾人もの命を救う。

生年月日 1848年(嘉永1)
没年月日 1912年(明治45)
関連地域 三郷(下長尾)
職業・肩書 自治功労者
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

三郷下長尾に生れました。1872年(明治5)、新学制が発布されましたが、通学距離が4キロメートル以上と遠いため、長尾村の平福寺を仮校舎として、協和学校を計画しました。協和学校の設立に当り、教師に高橋白山、助手に北原兼信を依頼して、永山筑摩県知事に設立願を提出し、実現しました。 1873年(明治6)、長尾村の副戸長になった時、この地方にコレラが流行したため、医師の派遣や防疫に努め、自宅を病室や医師の宿に当て、幾人もの命を救いました。温村長・郡会議員・県会議員等を勤め、私事を投げ打って公事のために尽して、人の悩みについて親身になって相談に乗りました。1912年(明治45)に、64歳で亡くなりました。

略歴譜

1848年(嘉永1) 0歳 三郷下長尾に生れ、後に東中沢家を継ぐ。
1872年(明治5)   新学制が発布されるが、通学距離が4キロメートル以上と遠いため、長尾村の平福寺を仮校舎として、協和学校を計画する。
    協和学校の設立に当り、教師に高橋白山、助手に北原兼信を依頼して、永山筑摩県知事に設立願を提出し、実現する。
1873年(明治6)   長尾村の副戸長となる。
    この地方にコレラが流行したため、医師の派遣や防疫に努め、自宅を病室や医師の宿に当て、幾人もの命を救う。
1879年(明治12)   コレラへの対応の功績を認められ、県から表彰される。
1882年(明治15)   戸長に就任し、1期、新制度実施の責任者となり、努力する。
1893年(明治26)   温村長に選任され、新しい村づくりのために尽力する。
1897年(明治30)   郡会議員となり、この間、郡の参事も勤める。
1899年(明治32)   郡選出の県会議員の任を1期果す。
    私事を投げ打って公事のために尽して、人の悩みについて親身になって相談に乗る。
1912年(明治45) 64歳 亡くなる。

参考文献

三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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