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中田 又重|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052060 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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中田 又重
なかた またじゅう

播隆を案内。

生年月日 1795年(寛政7)
没年月日 1852年(嘉永5)
関連地域 三郷(南小倉)
職業・肩書 登山道開削者
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 社会(交通通信)

 

経歴

三郷南小倉に生れました。文政期に岩岡村の庄屋伴次郎を訪ね、難航していた飛騨への新道の開削の計画を練り直し、自ら陣頭に立って工事を行いました。1826年(文政9)8月に、中田九左衛門の紹介により、播隆から槍ヶ岳登山案内を引受け、2人で槍ヶ岳中腹の坊主岩まで登りました。1833年(天保4)、槍ヶ岳中腹の岩窟で、念仏修行中に疲労衰弱していた播隆を救出しました。1834年(天保5)、播隆と槍ヶ岳頂上をならし、仏像一体を加えて4体を安置し、「善の綱」(わらの綱)を懸けました。これを「善の綱」といいました。1837年(天保8)、着工以来17年を経て、ついに飛騨新道が完成しました。1840年(天保11)には、岩岡伴次郎と一日市場の百瀬茂八郎の援助を受けて、槍ヶ岳頂上付近に鉄鎖を設置しました。

略歴譜

1795年(寛政7) 0歳 三郷南小倉の豪家に生れる。
  25歳から26歳 村の青年に漢書や手習を教える。
文政   半次郎と意気投合し、飛騨新道の開削に加勢する。
1826年(文政9)8月   播隆から槍ヶ岳登山案内を引受け、2人で槍ヶ岳頂上直下まで登るが、播隆に従い、引き返す。
1828年(文政11)   苦心の末、播隆と槍ヶ岳頂上に初登頂し、仏像3体を頂上に安置する。
1833年(天保4)   第3回目の登頂で、播隆は岩窟に一人残り、17日の念仏修業をした。
    岩窟に一人残った播隆を心配し、救出に向かった又重郎は、疲労衰弱した播隆を背負い、下山した。
1834年(天保5)   槍ヶ岳頂上から頂上直下までの登山道に綱を設置する。これを「善の綱」という。
1837年(天保8)   飛騨新道が完成する。
1840年(天保11)   槍ヶ岳頂上から頂上直下までの登山道に鉄鎖を設置する。
1852年(嘉永5) 57歳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌2 三郷村誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館

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