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中島 輪兵衛|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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中島 輪兵衛
なかじま わへえ

拾ヶ堰の開削。

生年月日1752年(宝暦2)
没年月日1838年(天保9)6月18日
関連地域穂高(柏原)
職業・肩書庄屋
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野経済(産業)

 

経歴

穂高柏原の庄屋の家に生れました。輪兵衛は、寛政年間から、奈良井川に水源を求める考えを主張し、讃岐の金比羅大権現を参詣し、祈願の上、自宅へ勧請する程でした。1812年(文化9)12月、保高組大庄屋等々力孫右衛門宅に、同孫一郎・輪兵衛・下堀金村庄屋平倉六郎右衛門が集まり、3人で藩への働き掛けの具体策を打合せました。実際の藩役人の案内は、輪兵衛・六郎右衛門が行いました。この頃、吉野村庄屋勘兵衛・等々力村庄屋民右衛門・柏原庄屋与一右衛門等も奈良井川引水の動きをしていました。1814年(文化11)、輪兵衛・民右衛門・勘兵衛・六郎右衛門・与一右衛門の5人に孫一郎も加わって、願書を保高・長尾両組の大庄屋に提出しました。翌年、藩は、輪兵衛・六郎右衛門の案内で、詳細な調査をし、1816年(文化13)2月から始めた難工事は、5月に見事に成就しました。1838年(天保9)に、86歳で亡くなりました。

略歴譜

1752年(宝暦2)0歳穂高柏原の庄屋の家に生れる。
寛政年間から 奈良井川に水源を求める考えを主張し、讃岐の金比羅大権現を参詣し、祈願の上、自宅へ勧請する。
1812年(文化9) 孫一郎・輪兵衛・六郎右衛門の3人で、藩への働き掛けの具体策を打合せ、実際の藩役人の案内は、輪兵衛・六郎右衛門が行う。
1814年(文化11) 輪兵衛・民右衛門・勘兵衛・六郎右衛門・与一右衛門の5人に孫一郎も加わって、願書を保高・長尾両組の大庄屋に提出する。
1815年(文化12) 輪兵衛・六郎右衛門の案内で、藩は、詳細な調査をする。
1816年(文化13) 2月から始めた難工事は、5月に見事に成就する。
1838年(天保9)6月18日86歳亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下南安曇郡誌改訂編纂会/編安曇野市立図書館
穂高町誌第二巻穂高町誌編纂委員会/編安曇野市立図書館
堀金村誌上巻堀金村誌編纂委員会/編安曇野市立図書館