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長谷川 清登|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052058 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

長谷川 清登
はせがわ けさと

わが国最初の一等飛行機操縦士となり、民間飛行家として航空思想の普及に尽す。

生年月日 1896年(明治29)
没年月日 1959年(昭和34)
関連地域 豊科(上鳥羽)
職業・肩書 民間飛行家
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 社会(交通通信)

 

経歴

豊科上鳥羽に生れました。1916年(大正5)、南穂高小学校の教員から徴兵により、東京の近衛騎兵連隊へ入隊しました。1921年(大正10)、わが国最初の一等飛行機操縦士の試験に合格して、航空学校を卒業し、所沢陸軍飛行学校(旧航空学校)の教官を2年間勤めました。除隊後、民間飛行家として航空思想の普及に尽すことを考えました。1924年(大正13)4月12日、陸軍より払い下げられた偵察機サルムソン二A二型を操縦し、各務原飛行場から豊科上空経由で松本まで飛行しました。同じ年、長谷川飛行士後援会が発足しました。松本市は、笹部に飛行場用地を買い上げ、長谷川飛行士に使用させ、これがわが国初の個人飛行場といわれます。長野県近県を飛行し、航空機時代の到来を講演して歩くとともに、飛行機の平和利用の普及に尽しました。1959年(昭和34)、63歳で亡くなりました。

略歴譜

1896年(明治29) 0歳 豊科上鳥羽に生れる。
1916年(大正5)   南穂高小学校の教員から徴兵により、東京の近衛騎兵連隊へ入隊する。
1920年(大正9)   陸軍により所沢に開設された航空学校に、軍籍のまま志願して入校する。
1921年(大正10)   わが国最初の一等飛行機操縦士の試験に合格して卒業する。
    所沢陸軍飛行学校(旧航空学校)の教官を2年間勤める。
    民間飛行家として航空思想の普及に尽すことを考える。
1924年(大正13)4月12日   陸軍より払い下げられた偵察機サルムソン二A二型を操縦し、各務原飛行場から豊科上空経由で松本まで飛行する。
1924年(大正13)   松本の長谷川家の養子となり、代議士・県会議員・松本市等の応援により、長谷川飛行士後援会が発足する。
    松本市は、笹部に飛行場用地を買い上げ、長谷川飛行士に使用させ、わが国初の個人飛行場となる。
1934年(昭和9)   室戸台風のため、長谷川飛行場は閉鎖となる。
    長野県下のほか、新潟県・群馬県・埼玉県・千葉県等を飛行し、空を飛ぶ時代の到来についての講演等を行う。
    新聞社の原稿等の空輸・上空からの山の撮影・地図作り等、飛行機の平和利用の普及に尽す。
1959年(昭和34) 63歳 松本空港が建設されることを聞きながら、亡くなる。

参考文献

豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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