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等々力 巳吉|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

等々力 巳吉の写真

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等々力 巳吉
とどりき みよし

教師をやめてパリに留学する。二科展、日本美術院、一水展、日展等に出品し、日本アルプスの研究と制作に精魂を傾注する。

生年月日1893年(明治26)
没年月日1959年(昭和34)
関連地域穂高(柏原)
職業・肩書洋画家
活躍年昭和時代
ゆかりの分野文化(芸術)

 

経歴

穂高柏原に生れました。1928年(昭和3)まで、堀金・豊科・開智小学校の教師として教育に専念する傍ら、画筆に熱中しました。1928年(昭和3)5月、パリへ画学の旅に出て、3年間留まり、研究所でフリエズ師に就き、洋画を究めました。1930年(昭和5)には、二科展で滞欧中の作品、「ヴェニスの船着場」が初入選しました。1937年(昭和12)から1942年(昭和17)まで、画筆報国のため、朝日新聞従軍画家となって、北支で戦線スケッチを行う。1940年(昭和15)に、紀元2600年記念展に出品し、満州牡丹(ぼたん)江東寧に、松本50連隊(れんたい)遠山部隊長を訪ね、「国境の勇士」を百号で画きました。北京に住み、北京公署・建設総署の依嘱により、清朝歴史画の制作をするとともに、中国画の研究に心を傾けました。帰国後は、日本アルプスの研究と制作に情熱を注ぎました。1950年(昭和25)、日本美術展に「小梨平」、第17回一水会に「神秋上高地」を出展しました。1959年(昭和34)、病気のため65歳で亡くなりました。

略歴譜

1893年(明治26)0歳穂高柏原に生れる。 
  穂高高等小学校を卒業して、松本教育学校に学び、教師となる。
1909年(明治42) 1928年(昭和3)まで、堀金・豊科・開智小学校の図画専科教員・本科正教員として教育に専念する傍ら、画筆に熱中する。
1928年(昭和3)5月35歳シベリア鉄道でパリへ画学の旅に出て、3年間留まる。研究所に入り、フリエズ師に就き、洋画の精髄を究める。
1930年(昭和5) スイス・イタリアを歴遊し、帰国後、二科展で滞欧中の作品、「ヴェニスの船着場」が初入選する。
1937年(昭和12) 画筆報国のため、1942年(昭和17)まで朝日新聞従軍画家となって、北支で戦線スケッチを行う。
1940年(昭和15) 紀元2600年記念展に出品する。満州牡丹江東寧に、松本50聯隊遠山部隊長を訪ね、「国境の勇士」を百号で画く。
1943年(昭和18) 北京郊外の万寿山に居住し、北京公署・建設総署の依嘱により、清朝歴史画の制作をするとともに、中国画の研究に心を傾ける。
1944年(昭和19) 北京報道部の依嘱により、河南作戦に従軍する。一水会会員となる。
1946年(昭和21)5月 帰国する。柏原と東京のアトリエで、日本アルプスの研究と制作に精魂を傾注する。
1950年(昭和25) 日本美術展に「小梨平」を出展する。
  第17回一水会に、苦心の大作「神秋上高地」を出展する。
1959年(昭和34)65歳病気のため生地で亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下南安曇郡誌改訂編纂会/編安曇野市立図書館
穂高町誌穂高町誌編纂委員会/編安曇野市立図書館
安曇野の美術丸山楽雲/編安曇野市立図書館
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展総合遺作展実行委員会/編