洞山 来応|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052037 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
洞山 来応
ほらやま らいおう
龍門寺住職(23世)。篠ノ井線西条・明科間の難工事で出た多数の犠牲者の供養のため、龍門寺境内に弔慰碑を建立。東北飢餓罹災者を救済するために、義捐金を集める。
生年月日 | 不詳 |
---|---|
没年月日 | 1920年(大正9)3月14日 |
関連地域 | 明科(中川手) |
職業・肩書 | 住職 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(宗教) |
経歴
明科中川手に生れ、龍門寺23世となりました。1901年(明治34)7月、中川手村の有志とはかり、1896年(明治29)に着工した篠ノ井線西条・明科間の難工事で多く出た、犠牲者の弔慰碑建設寄附願を県知事に提出しました。しかし、内務省令の趣旨に適さない故に却下されたため、翌年再び有志18名連名で、村長より松本警察署長に提出し認可されました。450円を集め、同年10月、弔慰碑を龍門寺境内に建立して、犠牲者を供養しました。龍門寺の過去帳には、8名が記録されました。
1903年(明治36)4月には、前年の東北飢餓罹災者を救済するために、発起人となり、義援金を中川手村民38名より集めて被害地へ送りました。
略歴譜
生年不詳 | 明科中川手に生れ、龍門寺23世となる。 | |
---|---|---|
1901年(明治34)7月 | 中川手村の有志とはかり、篠ノ井線西条・明科間の難工事で多く出た、犠牲者の弔慰碑建設寄附願を県知事に提出する。 | |
1902年(明治35)5月 | 内務省令の趣旨に適さない故に却下されたため、再び有志18名連名で、村長より松本警察署長に提出し認可される。 | |
1902年(明治35)10月 | 450円を集め、弔慰碑を龍門寺境内に建立して、犠牲者を供養する。龍門寺の過去帳には8名が記録される。 | |
1903年(明治36)4月 | 前年の東北飢餓罹災者を救済するために、発起人となり、義援金を中川手村民38名より集めて被害地へ送る。 | |
1920年(大正9)3月14日 | 亡くなる。 |
参考文献
明科町史 | 明科町史編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
---|