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二木 保幾|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052030 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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二木 保幾
ふたつぎ やすき

早稲田大学の経済学部教務主任。理論経済学を専門とし、学界の重鎮、学園の至宝といわれた。

生年月日 1892年(明治25)
没年月日 1934年(昭和9)9月21日
関連地域 三郷(一日市場)
職業・肩書 経済学者
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 文化(学術・思想)

 

経歴

三郷一日市場に生れました。1914年(大正3)、早稲田大学政治経済学部を卒業して、朝日新聞社に入社し、政治経済部の記者となった後、外務省担当記者として令名を馳(は)せ、外務次官幣原喜重郎等の称賛を受けました。1915年(大正4)に全国遊説が試みられた時、率先して大隈内閣後援会遊説部を組織し、その会長に推されました。官界や実業界から招聘(しょうへい)を受けましたが、専攻の経済学を究めようと母校の研究室で研鑽(けんさん)を積みました。1919年(大正8)、早稲田大学第二代総長塩沢昌貞から、非凡な才能を買われ、母校の留学生として米・独・仏に留学を命じられました。帰国後は、早稲田大学経済学部教務主任等を勤め、学界の重鎮等といわれましたが、病気のため、1934年(昭和9)に亡くなりました。

略歴譜

1892年(明治25) 0歳 三郷一日市場に生れる。
1908年(明治41)   順天堂中学2学年の編入試験に合格する。
1910年(明治43)4月   早稲田大学第一高等科に入学する。
1914年(大正3)7月   早稲田大学政治経済学部を卒業する。
1914年(大正3)   朝日新聞社に入社し、政治経済部の記者を経て、外務省担当記者として令名を馳せ、外務次官幣原喜重郎等の称賛を受ける。
1915年(大正4)   率先して大隈内閣後援会遊説部を組織し、その会長に推される。
  官界や実業界の先輩から熱心に招聘を受けたが、専攻の経済学を更に究めようと母校の研究室で研鑽を積む。
1919年(大正8)   早稲田大学第二代総長塩沢昌貞が、非凡な才能を見抜き、母校の留学生として米・独・仏に留学を命じる。
1922年(大正11)   学識を深めて帰朝し、早稲田大学講師となる。
1923年(大正12)   早稲田大学教授となる。
1924年(大正13)   早稲田大学経済学部教務主任となる。
1934年(昭和9)9月21日 42歳 やがて早稲田を背負う人と評せられる中、病気となり亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館
写真:南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 原板  

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