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播 隆|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052029 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

播 隆の写真

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播 隆
ばん りゅう

1828年(文政11) 槍ヶ岳の開山。

生年月日 1786年(天明6)
没年月日 1840年(天保11)10月21日
関連地域 その他(越中。三郷小倉の中田又重の案内で槍ヶ岳に入山。)
職業・肩書 僧侶
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 文化(宗教)

 

経歴

越中国上新川郡川内村の一向宗の道場、中村家の次男に生れました。大和・近江・美濃・飛・尾張・下総の諸国を偏歴し、修行を積み、美濃国大野郡揖斐町の城台山に播隆院阿弥陀堂を建て、後に一心寺と改めて定住しました。1824年(文政7)8月の笠ヶ岳登山の時に、槍ヶ岳を望んで、その秀峰の霊光に感動し、その登頂を心に誓いました。1826年(文政9)8月に、松本の東郊女鳥羽山玄向寺の立禅和尚を訪ね、槍ヶ岳開山の決意を述べ、道案内のため立禅和尚・三郷小倉の鷹打役中田九左衛門を通して、中田又重を紹介されました。積雪期を含めて5回の登頂を行い、頂上に祠を作り、仏像を安置し、頂上から頂上直下まで鉄鎖(善の綱)を設置しました。美濃国一心寺に戻る途中に病気となり、亡くなりました。

略歴譜

1786年(天明6) 0歳 越中国上新川郡川内村に生れる。
  19歳 「大和国阿辺が峯」の見仏上人に師事して一向専修念仏行者となり、道名を岩仏とし、後に播隆と改める。
    美濃国大野郡揖斐町の城台山に播隆院阿弥陀堂を建て、後に一心寺と改めて定住する。
    信飛国境の高嶺に登って行を修めようと発願し、松本本郷の玄向寺の立禅和尚を訪ねる。
1826年(文政9)8月   鷹打役中田九左衛門が高齢のため、三郷小倉の別家の中田又重の案内で、念仏を唱え、人跡未踏の槍ヶ岳に登頂する。
  下山中、岩壁(坊主小屋:槍沢上部に位置する)で48日の行をする。
1828年(文政11)7月20日   大阪で鋳造した仏像を奉じ、中田又重と槍ヶ岳頂上に安置する。
1834年(天保5)6月   第4回目登山で、中田又重等と「善の綱」(わらの綱)を懸けると共に、槍ヶ岳頂上に祠を造り、釈迦牟尼仏を安置する。
1834年(天保5)10月   積雪期に第5回登山を決行し、同行の弟子5人を中腹の窟岩から下山させ、又重と48夜の勤行を果たし下山する。
  諸国の信者の喜捨による鉄類を集めて鋳造した鉄鎖を、登山用に槍ヶ岳頂上から頂上直下までの約100間懸垂する。
    仏心が極めて篤かったため、これを慕う弟子が380余名に達する。
1840年(天保11)10月21日 54歳 美濃国加茂郡太田宿の林七(市)伊佐衛門方で病気のため、亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌2 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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