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白沢 民右衛門|安曇野ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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白沢 民右衛門
しらさわ たみえもん

拾ヶ堰の開削。

生年月日1749年(寛延2年)
没年月日1832年(天保3)
関連地域穂高(等々力)
職業・肩書庄屋
活躍年江戸時代以前
ゆかりの分野経済(産業)

 

経歴

穂高等々力の庄屋の家に生れました。従来、この一帯は、灌漑用水に乏しかったため、民右衛門は、これを憂え、長年にわたって研究していました。1801年(享和1)に、同村元右衛門、吉野村庄屋岡村勘兵衛と堰の開削方を検分し、水路の開削を願い出ましたが、藩は事業の容易でないことを察して、許可しませんでした。民右衛門は、郡奉行の内命を受けて、三度江戸に上り、老中に達することができました。1815年(文化12)、同志数名で合議し、発起人となって、関係10か村の庄屋同意の下に、再び藩に願い出ました。遂に藩の許可するところとなり、1816年(文化13)2月11日に工事に着手しました。白沢民右衛門、会計担当。岡村勘兵衛、人夫出役担当。下堀金村庄屋平倉六郎右衛門・柏原村庄屋中島輪兵衛ともに技術担当。等々力孫一郎は、総務担当で総指揮を務めました。工事は困難を極めましたが、2か月後の5月11日には一応終了し、補修して完全に通水をみたのは、7月3日でした。全長15キロ、等高線570メートルに沿って、10か村にまたがって流れる横堰は、見事に豊富な水量を烏川扇状地の扇央にまで揚げることができました。藩主は、この功績を称え、苗字帯刀を許しました。1832年(天保3)、83歳で亡くなりました。

略歴譜

1749年(寛延2)0歳穂高等々力の庄屋の家に生れる。
1801年(享和1) 同村元右衛門・吉野村庄屋岡村勘兵衛と堰の開削方を検分する。
水路の開削を願い出たが、許可は得られない。
郡奉行の内命を受けて、三度江戸に上り、老中に達することができる。
1815年(文化12) 同志数名で合議し、発起人となって、関係10か村の庄屋同意の下に、再び藩に願い出、藩の許可が下りる。
1816年(文化13)2月11日 工事に着手する。白沢民右衛門は、会計を担当する。2か月後の5月11日には、一応終了し、補修して完全に通水をみたのは、7月3日である。
藩主は、この功績を称え、苗字帯刀を許しました。
1832年(天保3)83歳亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下南安曇郡誌改訂編纂会/編安曇野市立図書館
穂高町誌第二巻穂高町誌編纂委員会/編安曇野市立図書館
堀金村誌上巻堀金村誌編纂委員会/編安曇野市立図書館