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板花 孫蔵|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052022 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

板花 孫蔵
いたはな まごぞう

堀廻堰開削の功労者。

生年月日 1833年(天保4)
没年月日 1902年(明治35)
関連地域 堀金(田多井)
職業・肩書 堰開削功労者
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

堀金田多井に生れました。堀廻堰が開削された直後の1861年(文久1)、同堰の揚水を思い立ちました。堀廻堰は、もともと黒沢川の満水除け、小田多井堰の余水払い堰として開削されたため、広く開田しようにも灌漑用水は不足でした。井掛と図って、飛騨の野麦谷戸蔵沢の水を信州安曇郡大野川村の七寸沢に引き落とし、梓川に合水して温堰から常水として取り入れようとしました。1872年(明治5)3月に、筑摩県土木係本山則徳の協力を得て、遂に野麦側と示談が成立しました。梓川掛りの諸堰の了解を経て、堀金の田多井・田尻・上堀・扇町の堰総代庄屋連署のもとに、翌月の4月に筑摩県庁へ願書を差し出して、普請に取り掛りました。普請のできた7月に、県庁から梓川井掛りを申しつけられて、用水路の増水に成功しました。

略歴譜

1833年(天保4) 0歳 堀金田多井に生れる。
1861年(文久1)   堀廻堰が開削された直後に、同堰の揚水を思い立つ。
  堀廻堰は、もともと黒沢川の満水除け、小田多井堰の余水払い堰として開削されたため、広く開田しようにも灌漑用水は不足であった。
  井掛と図って、飛騨の野麦谷戸蔵沢の水を大野川村の七寸沢に引き落とし、梓川に合水して温堰から取り入れようとする。
1872年(明治5)3月   筑摩県土木係本山則徳の協力を得て、野麦側と示談が成立する。
1872年(明治5)4月   梓川井掛りの了解を経て、堀金の田多井・田尻・上堀・扇町の堰総代庄屋連署で、筑摩県庁に願書を出し普請に入る。
  普請のできた7月に、県庁から梓川井掛りを申しつけられて、用水路の増水に成功する。
  堀廻堰は、標高600mの等高線に沿って掘り抜かれ、堀金の田多井で掘り廻し、烏川扇状地の扇央を横断して、田尻古町から下堀扇町に至る。
  堀廻堰の開田面積は当初30ヘクタール、現在約100ヘクタールに及んでいる。
  晩年に、選ばれて三田村助役に就任し、村政に尽す。
1902年(明治35)   亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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